敗者の群像(その18)

私達が仮住居にしていたここ南新京は日本街で以前から日本人だけが住んでいた街なので、敗戦後とは言え至極環境は良かったのである。

北満からの避難民はあまりここには避難してきていなかった。終戦後も現状のままで生活をしている人たちが多くいたので、避難民収容所のような悲惨な生活ほどではなかったと思う。

ここの地区に比べて、北満から新京に避難してきた開拓団の人たちの生活はそれは筆舌に尽くしがたい悲惨なる生活だったらしい。あと四、五日でいよいよ待望の引揚げが始まるという日に、拓友たちと南緑園へ訪れることにした。と言うのは私たちが北満から新京にたどり着いて最初に収容させられた処が南緑園なのである。

いまはどんな生活をしているのか、一度訪れてみたいと思っていた。

朝はやく五、六人で家を出た。町中を通らずに野原へ出てまっすぐ北へ歩けば、目的の緑園へ行ける近道なのでその道を選んだ。

七月の野原は、草花が咲き乱れていて本当に美しい。大陸は真夏である。太陽はきついが吹き抜けるそよ風は、汗ばんだ肌に気持ちいい。草原を約三十分ほど歩いたところで、急に緑園の建物が見えるところに出た。

前方にすごく広い畑のようで、白い黍がらが立っているように見えた。「随分と黍を植えたもんだね。」と話しながら近づいてみると、なんと黍がらに見えたのは墓標なのである。

土を少し盛った墓に板ぎれなどでつくった墓の標なのである。

ほとんどの墓標には名前と歳を書いているが、十才以下の子供の墓である。

食べる物もなく栄養不良でそのうえに酷しい寒さに絶えられなくなって、次々と小さい命から亡くなっていったのだろう。

悲しい親子の叫びが風に乗って聞こえてくるようで、しばらくの間その場に呆然と立ち尽くしていた。

ここ緑園は元関東軍の兵舎の跡である。ここへ北から引掃げて来た避難民たちを収容していたところである。

もうここには人影はなかった。この度の第一時の引揚げで出ていったのだろう。

在るものは荒れ果てた家屋がたたずんでいるのみだ。誠に言い様のない荒涼とした風景である。

ここで何千人の日本人が避難生活をしていたのかと思うと、さぞ酷しいそして悲しい一年であったことだろう。まるで地獄の跡を見ているようで、背筋に冷たい物が走る思いがした。

誰も言葉がない。ただ黙って立ちつくしていた。地平線に夕陽がいっばいに燃え出した頃、帰路についたのである。

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