敗者の群像(その19)

漸く私達にも中国治安局より引揚げ命令が出た。いよいよ待望の日本への引揚げである。

今度こそは日本へ間違いなくかえることが出来るのだ。嬉しい。

終戦から二年目、随分と苦労をした。

いろいろあったが、ここ長春での思い出は僅かな一年くらいだったが、何年も住んでいたような永い時間であった。と同時に、苦しい事や悲しかったことがあまりにも多くあった。

拓友たちお互いに助け合い励まし合い乍ら、一生懸命生きよう、そして日本の土を踏みたい、唯それだけの一念で頑張って今日まで来たのである。

南新京駅から斎藤の親父さん一家と我々十四名の者が一組となって引揚団に加わり、汽車に乗ることが出来た。

北から避難をして来た一年前と同じ汽車で無蓋車である。屋根無しだから雨でも降ればずぶぬれである。それでも間違いなく南へ向けて走っているのだから嬉しい。

途中で停車する駅では、中国特産の甜瓜(マクワウリ)を中国人が売りに来る。けっこう高価だが今のところ金はある。それを買って食べてみた。何とうまいことか。こんな甘い瓜を食べたことがない。一年前の避難時となら少しは中国人も、日本人に好意的になっているようである。

二日目にイバラギと云う駅で全員降ろされた。この駅は引揚船が入港しているコロ島より二駅くらい手前のところである。このイバラギと云う所は学校のあったあとに一時的に引揚者を収容している。

ここでとしよりや女、子供などは、優先的に先に船に乗せて日本へ送るのだ。我々若者はコロ島での使役労働を、乗船の順番が来るまでやらされることになった。

毎日炎天下の焼けつくような暑い中で、弾薬のケース約二十キロくらいな箱を山の上へ運ぶのである。重労働だ。食べる物もろくろく与えてもらわずの労働である。へとへとになる。五十人くらいの若い日本人達が一団となって作業をしている。どの人の顔も死人のようにくたびれ果ててやせこけている。私の体も骨と皮になっている。苦しい、足が動かない。中国兵が監視している。なまけると小銃でなぐられる。まるで奴隷そのものだ。

港の沖合いには、二隻ほど引揚げ船が停泊して乗船をまっている。もう一隻は桟橋で日本人を乗船させている。そんな様子を目の前に見ながらの重労働を強いられている。

時には外国船の船庫に入って麦粉の積み出しの使役である。これは大変な仕事であった。むし暑い無風の船底で粉と汗にまみれての仕事だ。いつの日、我々は乗船できるのか。毎日毎日乗船していく日本人達を見送り乍ら、何と十日間余り働かされて漸く乗船する日がやって来た。

使役から解放されたが、体はぼろぼろである。引揚げ船を目の前にしながら倒れるものが続出した。私達六名くらいのグループも皆体力は限界だ。それでも皆が揃って漸く船に今日は乗れる。弱った体ではあるが、心もちうき立つのを覚えた。

旧日本軍の巡洋艦である。その船に我々は乗ることが出来た。

甲板に上がって港の赤ちゃけた山々を眺めながら、あーこれで此の大陸ともお別れだ、ずいぶん苦しめられた土地、二度と此の地を訪れることもないだろうか・・・。地獄だったこの国、敗戦民として生死をかけた逃避行、あれからちょうど一年になる。さまざまな思い出を残して今解放されて去るのだ。

船が静かに動きだした。ずいぶんいじめてくれた中国人たちよ、彼等ももうここ迄は銃をもって追かけてはこないだろう。「中国人の馬鹿野郎。」大声でコロ島の山へ向って叫んでみた。その声も速度を出したエンジンの音にかき消されてしまう。コロ島の山々が見えなくなった頃、皆で船室に入って横になった。むし暑い狭い船室で一人用ベッドではあるが、身体一つようやく寝れる程度である。実に寝苦しい。だがあの十日間の重労働を思えばここは極楽だ。エンジンの音がやけに耳につくが、この音は一音一音間違いなく日本へ近づいている音なのだ。

いつのまにか、ふるさとのことを考えながら眠りについていた。

大きな、それは大きな夢を抱いて渡った大陸、今こうして祖国と共に敗れて、夢ならずして裸で日本へ向って帰途についているのだ。

他国で戦いに敗れた国民の苦しみを、この身でいやと云うほど味わった青春であった。

敗者たちの群は、懐かしい祖国へ向けて今近づいているのだ。

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