あれから二日、三日と休んでいるうちになんとか起き上がることが出来たが、理髪店の田村さんとこへは、長いこと休んだこともあってつい行きづらくなってしまって、思い切って辞めることにした。そうこうしているうちに、面白い仕事が私のところへ舞い込んできた。仕事と言うのは豆腐を売る商売のことなのである。
拓友の宮地時広が、私に豆腐売りをやってみないかと誘ってくれたのが切っ掛けでである。彼は豆腐売りをやめ別の仕事をするらしいので、私にその仕事を譲ってもいいと言うことである。
物を売る。そんなことは生れて始めての経験である。が、やってみたい。何だか急に目の前が明るくなったような気がした。
早速翌朝から宮地の案内で、豆腐の仕入れ元の中国人のところへ出向いて豆腐を三十丁卸してもらい、二つの入れ物に半分ずつ水と一緒に入れて天秤棒で担ぐのである。今日は初めてと言うことで、宮地がついていてくれた。
夜明けの日本人街、まだ誰も起きていない静かな町中へやってきたまではよかったが、さてこれから人一人通っていないこの街の中で豆腐を売るというのである。「トーフー、トーフー。」宮地が大声で叫んだ。なるほどこれくらい大声で言えば、家の中の人にも聞こえるだろうと思った。「トーフー、トーフー。」
宮地が言うて私が担いで歩くのである。
ところがである。そこからも、ここからも、「豆腐屋さん、お豆腐下さい。」と、入れ物を持った主婦たちがぞろぞろと出てきたではないか。みるみる内に豆腐は売れてしまったのである。これには驚いた。宮地も驚いて、こんなにはやく売れたことは初めてだと言う。僅か二、三十分で、一日苦力(クリー)をしての倍は利益がある。これは面白い、ますますやる気が湧いてきた。
さて翌朝からは一人で売らなくてはならないのだが、肝腎の、「トーフ。」の呼び声が出ない。思い切ってやってみるのだが、まるで蚊のなく声しかでない。照れくさくて恥ずかしい。こんなことでは、豆腐の一丁とて売れはしない。気は焦るがなかなか思うように声が出てくれない。考えたって仕方のないことである。
ええいなんとでもなれ。やけっばちに、「トーフー。」・・・出た、大声が。静かな町の中に私の澄み切った声が流れていく。もう躊躇はしない。「トーフ、トーフ。」ゆっくり町の中を呼びかけて歩く。
そのうちに、一人、二人と主婦の方達が入れ物をさげて買いに来てくれ出した。みるみるうちに豆腐は売れていく。八時頃までに全部売れてしまった。
空になった天秤棒をかついでの帰り道、商売の面白さを肌で感じながら今日のもうけを胸算用してみる。一丁三円に売って三十丁で九十円になる。四十五円の仕入れだから、残り四十五円のもうけである。
一日中苦力(クリー)をして三十円しかもらえない。それに比べると、二時間あまりでこのもうけだ。こいつは面白い。
私は人生の大部分を商売でやってきたが、今考えてみるとこの時の豆腐売りが商売の始まりであり、自由で他人に指図を受けずに努力すればするほど、はっきりと答えが出てくる。これが私の性格にあっていたのかもしれない。
こんな具合で一週聞くらい豆腐売りを続けた頃、いよいよ待ちに待った日本への引揚げが始まるという報が流れだした。
さあ、そうなると商売どころではない。気持ちはもう日本の空に飛んでいる。
さて、引揚げとなると準備がいる。十人余りの拓友の中で、金を貯めている者はほとんどいないのである。私とて随分稼いだと思っていたが、手元には一銭も無い。働いただけその日のうちに使ってしまうのであるから残るはずが無い。
気持ちは引揚げれることの嬉しさにうきうきで仕事をする気にならないが、着る服とてぼろぼろしかない。履く靴も足の出るようなものしかないのである。金を持っていけば中国街では売っているのだが、皆それぞれ頭をかかえて思案に暮れたのである。
考えてみても、何時死ぬか殺されるか分からない、不安の中の私達日本人だ。一日一日生きているだけであとの欲はなかった。 ところが、天は私達をみすてなかったのである。引揚げが一週間前に迫ったある日、斎藤の親父さんが良い仕事を捜してきてくれたのである。
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