敗者の群像(その13)

三人が乾さんの家を出る日になって、私達を最初に雇いにきた中国人の周がひょっこり顔をだした。そして彼が言うには、私一人を周の家に雇いたい、という事である。

私は考えた。尾崎や川村たちと拓友の居る日本街に帰りたい。だが周は執拗に私にきてくれるようにせまってくる。

とうとう根負けして私一人だけ周に雇われていくことになった。ここで川村と尾崎と、そして広島の娘さん達とも別々の別れである。私は一人ぼっちになって、周の所に連れられていったのである。周の言うには、待遇は乾の家より良い条件で雇うと言う。

周の家にいって先ず驚いたのは、家は土間があってその奥に一間だけの小さくてむさくるしいそうな部屋があるだけ。周の女房が敷居に腰掛けて、赤子に乳を飲ましている。周が私を連れてきたことを話しているようだ。彼女は私の顔をじろっと横目でにらみつけただけの挨拶である。

これはえらいところに来たもんだ。最初から周の言うことが違うのである。その晩は、物置のような所に破れ布団を敷いてもらって寝た。

食事は高黍のお粥だ。まずい上にろくろく当てがってもくれないのだ。乾さんの家の生活となら雲泥の差である。後悔先にたたずだ。暗闇の中で一人寝ていると、昨日まで一緒にいた川村達がなつかしい。これからの私のする仕事は何になるか解らないと言うことである。周が拾ってくる仕事を私にやらすつもりらしい。

最初の日は、ロバに荷馬車をつけて、ある中国人の家まで小さな荷物を運ぶ仕事である。大体の場所と受けとり人の名前に手紙を入れたものを周から預かり、ロバのひく馬車にゆられながら、行ったこともない知らない目的地へ向かったのである。

西二道街と言うところは中国人街で、何だかうすぎみの悪い街である。三つ目の橋を渡り、二軒目の右がわの家に荷物を届けて帰ってこい・・・ただそれだけの仕事ではあるが、何だか不安である。

ぎっしり隙間のない軒並みの町中である。一つ、二つと数えながら行くのであるが、三つ目の橋は随分遠かった気がする。

ようやく目的地へ着くことが出来た。

二軒目の家の門の戸をたたくと、待っていたように早速門を開けて、人相のよくない目のぎょろっとした男が出てきた。

周の手紙を渡すと、荷物を中に入れるように指示をして家の中にきえた。私はロバのたずなを門の柱にくくりつけてから荷物を下ろし、家の中に抱えてはいっていったところ、男が慌てて私の持ってきた荷物をしゃくりとって、早く帰れ・・・と手で追うようなしぐさをして、私を外へおい出したのである。

始めから周の態度とこの男の様子が、共通した何か不振な点がある。それに今の荷物にその秘密があるような気がする。だが私には関係のないことである。荷物を運べばそれで私の務めは終わったのであるから、やれやれと云ったところだ。

こばしりに走るロバの車にゆられながらの帰り道である。ちょど周の家の近くへ帰ったところで、検問中の保安警察官に停止をうけた。「何処へ行くのだ!!」「使いから帰る途中だ。」一人の警官がじいっと私を見つめていたが、「おまえは日本人だな。」「そうだ。」中国服を着ていても話しをすればすぐにばれる。そして私を、不審な男に見えたのか、近くにある詰め所まで連行されてしまった。  いろいろと取調べを受けるのだが、いっこうにらちがあかん。

中国語もろくに解らない私に、中国語だけの質問である。

彼らが話していることが、どうも私を留置場に入れておけと云っているようである。

私は困った。そしてとっさに頭に浮かんだのが、昨日まで世話になっていた乾さんだ。この人の名前を出して、証明してもらおうと考えた。今は主人の周の名前なんかいっても通用しないきがする。ひょつとして周と云えば、尚更私の立場が悪くなるような気がした。「私を証明する人が居る。この向うに住んでいる乾と云う大人(たいじん)だ。」彼らはこそこそ話し合っていたが、乾の家に電話をかけだした。

私のことを問うているようである。話している内に急にぺこぺこしだした。乾が大人(たいじん)であることが、この下っばの警官にも解ってきたようである。電話を切るなり、「結構だから帰ってよい。」留置場へほうりこまれなくてたすかった。胸を撫で下ろしながら、ロバをせきたて周の家に帰ってきた。

家の中を覗いてみると、周と二人の男たちが座に上がりこんで何やら小声で話し込んでいる。私は荷物を確かに届けてきたことを周につげてから、ロバから荷車をはずしやり、馬小屋にいれて飼いばを与えてから家にもどってみると、まだ三人は話し込んでいる。なにをいっているのか解らないが、ろくな申し合わせではないようである。私は入口の椅子に腰掛けて休んでいると、周が出てきて、「おまえは我々が今話していたことを聞いていただろう。」というのだ。「聞いてはいたが、私には貴方達の話している言葉は解らない。」「嘘を言うな。」周がいきなり私の顔を平手で殴りつけた。「なんで殴るのだ。」「知っていて嘘を言うな。」「知らんものは知らん。」又一つビンタがとんできた。私の前に子を抱いて座っている周の女房も、私が殴られるのを知らん顔をしてみている。訳の解らないことで痛め付けられるのは口惜しいが、歯をくいしばって我慢した。そのうちに殴るのは止めて、三人は困った顔をして出ていった。

時間はもう午後の三時すぎになっている。考えてみると今日運んだ木箱の中味だが、ひょっとするとあれは拳銃ではなかったかと思う。小さな平らな箱だったが、ずっしりと重かった。拳銃だったら十丁は入っていただろう。これはえらい男に見込まれたものだ。この状態でこここいたら、自分の命まで危ないのではないか。

よしここを逃げるぞ・・・そう思い付くと腹は決った。決行あるのみだ。周の女房がこちらをたえずうかがっているので、そう簡単には逃げられそうにない。だが周の居ない今より他にチャンスはないのだ。さて逃げるとなると私のただ一つの財産である風呂敷包みを持って逃げたいが、その包みは女房の居る部屋の隅においてあるのだ。持って逃げたいが、今をおいてない、荷物はあきらめた。

しばらくするうちに、子供をそっと横に寝かして彼女も、子供について添い寝を始めた。むこう向きに寝たのでこちらは見えない。

今だ・・・そっと裏戸を開けて、表通りに飛びでた。もうそこは大通りになっていて、通行人が大勢いる。私は後ろも見ずに必死になって走った。どれくらい走っただろうか。ぜえぜえ云いながら後ろを始めて振り返ってみたが、誰もおっかけてくる様子はない。

やれやれこれで私も自由になれた。急に目の前が明るくなった気がした。

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