敗者の群像(その12)

長春の冬も寒い。日中でも零下二十度くらいの日が毎日続く。着るものと食事はまあまあ当てがってもらっているので不自由はしないが、労賃は一銭も支給されないのである。ここに居るとまあ金を使う時がないので、さほどほしいとも又不自由とも思わない。

今は一番の楽しみは食べることだけである。

正月がきた。その日は朝仕事を済ましてから、三人はリイに連れられて中国の風呂屋にいった。リイが言うには、「風呂に入ったらぜったいに日本語を使うな。」と言われた。「なぜだ。」「日本人と一緒に裸になって風呂に入る事を、彼らは非常に嫌う。」と言う事である。

浴場に入ってみると、何と大勢の人がいる。湯の中でセッケンをつけて洗っている。湯は鉛色をしているのには驚いたが、ここまできて尻込みをするわけにもいかない。それにまる三ヵ月くらい一度も風呂に入ったことがないのである。人間って習慣になれれば、風呂くらい入らなくてもそれほど気になるものでもない。そんなことだから、久し振りに体を洗う事はとにかく嬉しい。

ごしごしすってもすっても垢が出てくる。三ヵ月分の垢とは一度に落とせるものではない。

湯につかって見ていると、賑やかなこと。日本語を大声で叫んでも聞こえはしないだろう。はだかになれば日本人も中国人も皆同じで、区別はつきはしないのである。三人が大声で話しながら、悠々と汚れた湯につかりながら、過ぎし日本の生活を思い出していた。

その晩は中国料理のポーズやギョウザがでておいしかった。家の者全員でお正月を祝った。

こんな寒い夜には、着る物も食う物もなく、飢えと寒さで一日に何人の日本人が死んでいったことか。数え切れない数だったと聞く。それに比べれば私達は本当に幸せである。この家の皆に感激しなくてはと、つくづく思ったことである。

クリスマス頃から、牛乳がソ連兵によく売れ出した。正月には品が足らないくらいの繁盛ぶりに主人も機嫌が良い。

ソ連兵に売る牛乳は幾つものバケツに七合目くらいづつ牛乳を入れて、夜の間外において凍らすのである。その凍結した牛乳を、バケツから抜いて南京袋に入れて出荷するのである。食料品でなく、まるで石ころを袋に入れている感じだ。

そんなおおざっばな牛乳の販売のかげに、三合入りの小瓶を一つさげて毎日牛乳を買いにくる日本人の女がいる。みるからによわよわしいそうな姿をした人である。何時も代金を払って帰るのだが、たまに家の者がいない時には代金をそっと戻してやったこともあった。乳児を連れている母親であろう。何度も頭をさげドアをしめて去っていく姿は、哀れな気がしてならなかった。

笑いが止まらないほど繁盛する中国人。それを買うソ連兵。

彼らは勝者である。まざまざと見せつけられるようで、無性に腹がたつ。主人はソ連兵から品物と引き換えに、赤いソ連紙幣の束を多額に受け取っているのを良く見かけた。

そんな忙しい毎日がつづき一月が過ぎたころ、病気の牛がでた。三頭もである。そのうち一頭が死んだ。すぐに解剖の本職の人がきて、食肉にバラしてしまった。それから三日くらいして、又一頭死んだのである。解剖していた牛の胃袋から釘が出てきた。そして、胃や腸に何本かの釘が突き刺さっているのが見つかった。

さてそうなると問題である。私達三人が第一に疑われた。直接には言わないが、態度からしてよくわかる。だが私達は後ろ暗いことはない。潔白である。誰が飼料に釘を入れたかである。それを先ず突き止めることが先決である。

一週間ほど前から飼料に高黍の焼酎のかすを、大量に買い込んで与えている。まさかその中に釘が入っているとは思えないが、調べてみることにした。シャベルで一方から念を入れて調べているうちに、五センチほどの釘が出てきたのである。その内に二本、三本と次々に出てくるではないか。証拠は出た。そして私達の疑いも解けた。だが牛は次々と死んでいく。これには主人も困り果てた様子である。

とうとう残った何頭かの牛を売ることに決めたようである。そうなると我々も要らなくなる。解雇と言う事である。

約四ヵ月くらいの短い住込み生活だったが、一年もいたような気がする。

戻る 次へ メニューへ トップへ