敗者の群像(その11)

中国人のマーチョウ(馬車)にゆられながら、長春の大道街を横ぎり、中国街の中に大きな門のある旧家らしい立派な邸宅に連れてこられた。広い邸内の一角に牛舎がある。この家の主人が出てきた。痩せ型のせいかんな顔が印象的だった。「ご苦労さん、一生懸命働いて下さい。貴方たちの面倒は私が責任を持ってみます。」流暢な日本語である。名は乾雲才と言う。彼は若い頃日本の獣医学校へ留学していたということだ。どうりで日本語が上手いわけだ。つぎに奥方である。小柄で美人だ。片言の日本語で、「宜しくね。」ほほえみながら頭を下げた。ひとのよかりそうな女である。その他に、今はない乾さんの父親の奥さんという老婆が三人いる。それからもう一人、リイとよぶ従業員がいる。この男が乳牛の世話をしているのである。年の頃は三十そこらだろうが、あまり風体の上がらないかっこうをしている。一癖ありそうな男に見えた。次々と顔合わせをしてもらっている内に、最後に支那服を着た娘さんが二人出てきた。驚いたことに二人声をそろえて、「こんにちは。」にこにこしながら日本語で挨拶をした。「私達も日本人よ。貴方たちが来てくれて本当に嬉しい。」日本の娘さんだったのか。それにしてもこの国街で、たった二人だけでしかも娘が、えらいなあとつくづく感心した。

彼女たちにしてみると、急に三人の味方が出来たのだ、それはたしかに嬉しいだろう。私達もほっとして、張り詰めていた気持ちが何だかほぐれたような気がした。

二人の娘さんの名前は、田村と小川と紹介した。広島県出身だそうだ。田村さんは小柄で、小川さんよりは二つ年上と言うことである。小川さんの方は体格がいい。どこか少女の面影が残っている感じがする。

いよいよここで働くことになった。川村と尾崎は牛の乳を絞ったり、牛の世話をする仕事に回された。私は邸宅のあらゆることをする仕事を割り当てられた。川村と尾崎は朝は五時に起きて乳を絞るのである。そして昼と夕方と、最盛期の牛は夜中の十二時に起きて絞らなくてはならないのである。大変な仕事であるが、二人は黙々と不平も言わずに頑張っている。 それに比べて、私は普通に起きて仕事をしていればいいのだからある程度気楽である。私の仕事は広い庭の掃除や、一頭いる馬の世話をして、その他いろいろと雑役をする。訓練所時代に木工部へいた関係で、大工の技術を少しばかり経験しているので、家の修理やその他の大工仕事でけっこう忙しい。

特技を持っているとこんな時に役にたつ。案外家の者には重宝がられて喜んでもらっている。

二人の娘さん達とも時間があれば、日本の故郷のことなどいろいろとはなしをした。二人とも気さくで明るい人たちで、広島なまりでやっていた。「女の身でどうしてこんなところまでやって来たのか。」彼女達は開拓の花嫁として終戦前に渡満したらしい。そして終戦を迎え、帰国することもできず仕方なくここで働いていると言う事である。炊事や洗濯で毎日忙しいようだ。そして三人の老婆と奥さんの世話など。けっこう楽しそうにはしゃぎながらやっているのを良くみかけた。

従業員頭のリイだが、日本軍の防寒外とうを着て背中を丸くしながら歩いている。何日も洗ったことのないような垢の着いた顔に前歯が所々抜けていて、なんと風采の上がらないことか・・・。ところが一緒に生活をしてみると、非常に人の良い。何でも知らないことは親切に教えてくれるし、学もあり私達日本人に好意的であり、充分に理解のあるのには見掛けとの違いに驚いたのである。

その彼がある日の夕方、顔色を変えて私達の部屋へ入ってきて、「えらいことをした・・・。」「どうしたか。」彼の言うには、寝る前にいつものようにオンドルに燃料の黍がらを入れて火をつけたところ、ギャアー、と猫が炎の中で叫んだ。猫がオンドルのたきぐちの中で寝ていたのだろう。リイは驚いて、とっさにオンドルの蓋をしめた。火だるまの猫が飛び出したら大火事になると思ったらしい。彼は、「こまった、こまった。」と、大げさに震えている。

中国でも猫のたたりを言う。体に似合わず気の小さいらしく、それから二、三日寝込んでしまった。食事を持っていき、「リイさん、どうだね。」声をかけると、悲しそうな顔をするだけで声もない。中国語でうまくは話せないが、「しっかりしなさいよ。猫を焼いたのは仕方がなかったことだ、誰でもそうするよ。くよくよしなさんな。」私の言ってる中国語が解ったのか、私をみながら頷いてくれた。

二、三日で起き上がることができたが、驚いたことに体中にできものが出来ている。まさか猫のたたりでもあるまいに不思議な出来事である。彼は猫のたたりだと思っているのだからしまつが悪い。そんなことでリイは仕事が出来なくなった。そのぶん今度は私が彼の仕事の分をやるはめになった。忙しくなった。猫のたたりが、私にまわってきたようだ・・・。

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