南新京(現在の南長春)の南明寮と云う寮に入れてもらうことになり、そこで何とか生活をすることになった。ここは避難民の数も少なく日本人の多いわりには、緑園の避難民収容所のようなせっぱ詰まった悲壮感があまり感じられない静かなところである。
久し振りに逢った拓友たちと手を取り合って再会を喜びあった。
依吉密(イチミ)開拓団で匪賊に襲われてから、ここまでたどり着いた間のいろいろな出来事をお互いが時の立つのも忘れて話し合ったのである。彼らも私達以上に苦しい逃避行の連続であったらしい。
ここでは遊んでいては誰も食べらしてはくれない。あくる日から皆でそれぞれに仕事捜しに中国人の家に行くのだが、雇ってくれるところと言えば郊外の農家の仕事くらいである。仕事はなれてはいるが、良く使う。まるで牛馬なみだ。昼食は黍の粉で蒸したパンである。
敗戦までは中国人が日本の苦力(クリー)であったが、今は反対の立場である。これも仕方のないことと諦めざるをえないが、こんな仕事は何日もは続かない。何時死ぬかも分からない私達だ、こんな馬鹿な苦労が出来るか。そんな気持ちが先になりやめてしまう。
少し働くと、その金で街に出て食料を買ってきて、無くなるまでは仕事はしない。
日本への引揚げが始まる様子は全然ない。
そんな毎日を過ごしているある日、一人の中国人が私たちのいる家に来て、「君達、私の家に働きに来てくれないか。三人雇いたい。腹一杯食べらして着るものも充分に当てがうが、こないか。」仕事は乳牛のちち絞りや、牛の世話をする仕事だそうだ。
すぐに日本へ引揚げれそうにもないし、なかなかいい条件のようなのでいって働いてみるか、と云うことになり、私と川村淳ともう一人は、尾崎庄助この三人が住こみで行くことになった。
|