敗者の群像(その9)

汽車は少しの間走ったかと思うと、ながい間止まる。そんなことを繰り返しながら迷走を続けている。時々すれちがいの北行きの列車には、日本兵を満載しているのに度々出合った。汽車の窓から手をふって、「はやく日本に帰れよ、俺たちは遊んで帰るからなあ。」そんな言葉を聞きながら、北へ去っていくのを見送ったのである。

彼らも、まさかあのシベリヤ抑留の悲惨な生活が待っていようとは、夢にも思わなかったであろう。

二日目の午後、汽車は、今度はずいぷん大きな駅に止まった。

ここはどこだろう・・・そんなことを話していると、「みんな降りて下さい。」日本人の男が、どなりながら告げていく。「ここはどこ!!」「新京だ。」とうとう新京までたどり着いたか・・・。

ぞろぞろと列に着いて歩いた。街から郊外に出たころは、日が暮れだしてきた。随分歩いた。腹はへってくたくただ。携帯用の大豆ももうない。

二時間くらい歩いただろうか、広い飛行場のような所に着いた。回りには関東軍の兵舎が並んで建っている。我々避難民はこの建物に収容されることになったのである。

ここがあの有名になった《みなみ緑園》である。何千人という避難民が飢えと寒さで次々と死んでいった、死の収容所になった所である。

自分たちに割り当てられた宿舎は一戸建ての、六畳一間くらいの家で十人余りがはいることになった。斎藤の親父さんと、私達隊員全員である。

ここには食べるものはなに一つない。だが今はぐっすり寝たい。それができそうで嬉しい。飛行場のかなたに、真っ赤に燃えた夕陽が窓ごしに見える。皆は壁にもたれてただ呆然としている。

疲れと空腹でうとうととしていると、急に入口の方が騒がしくなった。どうしたのだろう、と立ち上がったところへ、中年の女の人がヅカヅカと入ってきて、「まことにすみませんが、ここでお産をさして下さい。」と、私達を見回して早口に言うと、おなかの大きな女を連れて皆が休んでいる部屋へ入ってきた・・・ここは駄目だ俺たちの部屋だ・・・と断わるひまもないほど早急な出来事で、ただ狐につままれたようだった。「あなた方は、お産が済むまで外へ出て待っていて下さい。」 産婆さんのようである。有無を云わさない迫力のある言葉だ。

自分たちと同じように長い旅をして遠い道を歩きつづけて、ようやくここまでたどり着いた。そうして子供を産まなくてはならない。女としての宿命のようなものを感じ気の毒に思ったので仕方がない、外に出た。外はもう夜のとばりがおりかけて寒い。しばらくして、お産が始まったような苦しい声がしだした。それからどれくらい時間がたっただろうか。二十分くらいはたっていたと思うが、赤子のよわよわしい泣きごえが聞こえた。随分長い時間だったような気がする。

駅に捨てられていた何人もの子供の死体を私達は見てきた。今誕生した一つの命を心から祝福してやることはできない。それはあまりにも薄幸な子に見えて仕方がなかったからである。 それから十分くらいして、産婆さんが布にくるんだ赤子をだき、その後から今お産をしたばかりの女がついて出てきた。「どうもお世話になりました。」二人は言葉すくなに、いずことなく夕闇のなかに去っていった。「あの人達行くところがあるのかね。」・・・気の毒で悲しい出来ごとである。よわよわしい赤子の産声が耳に残ってしかたがない。

誰もが黙り込んでお産のあった汚れた部屋にもどった。

夜が明けるまでうずくまって寝た。寒さが時々眠い目をさました。

早朝に日本人会の方からコウリャンを皆に少しづつだが配ってくれた。だがこいつは生では食えない。炊かなくてはいけないが炊くものがない。そこで空きかんなどを拾ってきて、なんとかコウリャン粥を作って、フウフウ言いながらすすったがうまかった。こんなにひもじい時でないと食べれるものではない。空きっ腹に熱い粥がしみこむ。何とか生きた感じがした。

三日くらいたってから私達はここ緑園から出ていくことになった。じつは日本街のある南新京に、斎藤の親父さんの家族と拓友たちが一緒にいるということが拓友たちが探しに来てくれて分かったので、そこへ親父さんをはじめ皆で移ることになったのである。

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