十中隊に配属された私たち義勇隊の者は、空家になっている宿舎を一軒かしてもらい、そこでしばらく様子をみることになった。しばらくしていると隊員の人が昼食を持ってきてくれた。大豆の入った、義勇隊特有の主食である。訓練所当時を思い出す、なつかしい食事だ。空腹にはこれほどうまい御馳走はなかった。
ここの訓練所は、まだ敗戦と言う切羽詰まった緊張感がない。なにさま三千人余りの隊員を収容している施設だ。中国側もソ連側も、引揚げが始まるまでそのままにしておかないと手のつけようがないのである。私達がうけた、匪賊、暴民の襲撃などはここにはない。なんと静かなことである。これから待っている苦難の道を、誰ひとり想像しなかったであろう。だがこれからが三千人いや何万、何十万の在満日本人の苦闘の修羅場が始まろうとは・・・。
一週間くらい何もせずにこの隊でお世話になっていたころ、本部よりここを引き揚げて南への非難命令が出た。
明日はいよいよここを出て汽車に乗り、ひょっとしたら日本にそのまま帰れるかも知れない。そんなのんきなことを、本気でかんがえてみた。
出発する前夜、隊の食料倉庫から大豆をもらってきて、大きな鍋に入れていり豆をつくって、それぞれが五合くらいづつ袋に包んで、携帯食料用に準備した。さあこれでよし、いよいよ引揚げだ、そんな浮きたった気持ちのなかで、ふと一週間前に別れた怪我をしていたあの看護婦のことを思い出した。あれから元気になっただろうか。川村に、「あの時の看護婦さんは、元気になっただろうか。」と問うてみた。「おんしにはいわざったかねや。あの娘は、あれから三日目に死んだとゆうことじゃ。」「なに・・・死んだ・・・そうか、やっぱり駄目だったか・・・。」私は全然知らなかった。独り言のように口のなかで呟いた。なんだか悲しかった。連れて歩いたあの時は、随分辛かっただろう。もうすこし親切にしてやればよかった。今更後悔しても仕方のないことだが、心のなかで手を合わすよりすべがない。悲しい出会いでもあった。
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