1996年1月27日の午後3時、ニジェールの首都ニアメで突如勃発したクーデターの喧騒も夕刻にはおさまり、時々、散発的な機銃の音は聞こえても、当初のように空を揺るがす戦車砲の音は一切しなくなった。
電気こそ切れずにいたが、電話はまったく機能しない。私たちは無線での連絡を通じて、在留邦人の安否の確認に努めた。そうして、夕方8時すぎには、ニジェール国内の在留邦人63名に関して、ニアメ在住の某公団派遣の2名と、遠隔地のキリスト教関係の病院にいると聞かされているシスター1名を除く、60名の無事が確認されていた。
ラジオの国内放送は軍楽隊の演奏曲しか流していない。当然、RFI(フランス)やらBBC(イギリス)やらに耳をそばだてることになる。6時半にRFIが大統領府での銃撃戦と空港封鎖の第一報を流した後、しばらく何の情報も入らないでいたが、8時15分、国内放送でクーデターの実行グループによる声明が出された。
B大佐(当時、のちに将軍、大統領)を中心とする若手軍人グループは、ニジェールの内戦を回避し悲劇的状況を救済する目的で、現大統領を逮捕し政党の指導者たちを監視下においた。今後は適当と認められる時期が来るまで、国会、憲法、政党活動の停止を行い、若手軍人グループによる国家救済評議会が国政を担当する。本日以降、夜9時から翌朝5時半までの夜間外出を禁止する。今回の戦闘による死者は2名であり、クーデターは所期の目的を遂げて成功裏に終わったという、勝利の宣言であった。
しかし、これで安心はできない。子どもたちとカミさんが眠った後も、私はじっと広間の窓辺にたたずんで、外の気配に耳をすまし続けていた。ひょっとして大統領や政党側の勢力が反撃に出はしないか、どこかで戦車や部隊の移動の音はしていないか、時々響く威嚇射撃の銃撃音とは別に、何らかの音がするのではないか、更なる異変の兆候を読み取ろうとしていたのだ。そうして時々、ほとんど30分ごとに電話の受話器を取り上げて、無音が続いていることを確認した。
午前2時前、威嚇射撃の音も極めてまれになった。他に何の音もしない。もう大丈夫だ、クーデターに対する反撃の可能性はない。もう眠ってもよさそうだと、内心安堵の思いとともに、ひょいと取り上げた受話器に、ツーーーと音がした。私の予感は的中したのだ。こんな国だ、クーデターの首謀者は、無線ではできない連絡のために、必ず一度は電話を使う。その時間帯がいつになるかは分からないが、夜中に必ずそれがある。
日本は28日、日曜日の朝10時、協力隊事務局にかけても無駄だと私は判断した。大急ぎで、ニジェールに最もくわしい協力隊関係者、Aさんの川崎市の自宅へとダイヤルした。しかし、誰も出なかった。Aさんが不在なら、元協力隊事務局長の伴正一さんしかない。東京のご自宅で連絡がついた。クーデターの発生と現状、邦人の安否について報告した。たばこに火をつけ一服するする、象牙海岸の大使館にはただでさえ通じにくいんだが、、、と受話器を取り上げた時には、もう一切、発信音は聞こえなかった。一瞬の隙間でしかなかったのだ。しかし、これで邦人の家族たちも不要な心配なしですむと、そう思って眠った。
後日、このことが原因で、在象牙海岸大使館の領事担当の書記官から、きつい小言をくらってしまった。もっと日本の関係者に心配させてやきもきさせてこそ値打ちがあるのに、大使館の心配とは正反対に、東京の担当課は誰もみな安心しきって休みだった、、、と。
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