雨が降らないから砂漠になる。これはわかる。雨が減ったから砂漠化する。これもわかる。だけど、雨が降るから砂漠化する、、、と、こうなると、ちょっと説明がいるだろう。
実は、残念なことながら、雨が降るから砂漠化が進行する、そういう現実もあるのだ。
こういうと、まるで何か特別なことのように聞こえる。実際、そういう狙いで書いている。しかし、考えてみれば、単純なこと。雨で砂漠化が進行することも、場合によっては極めて当然なことでしかないのである。
サハラの南、サヘル地域と称されるセネガルやニジェールに限らず、ことは日本でも同じである。雨の後、川の水が茶色くにごる。あのにごりが、一体どこからくるものか、考えてみればよい。あのにごりは山や畑、地表の土が水によって流されて発生する。つまり、水の浸食作用によって、地表の土壌や砂などが削りとられて、にごるのだ。
この土壌侵食が、砂漠化対策の上で、重大な問題となっている。傾斜の急なところでは降雨による侵食は避けられない。前回取り上げたように、雨の降り方は半端でない。傾斜の少ない平坦なところでも、長い間の乾燥や山羊や羊などによる食害が進んで、地表をおおう植生や土壌をつかむ草の根などがなくなれば、土はすぐに削りとられる。むせび泣く秋霖煙雨なら知らず、驟雨、豪雨、集中的に大まじめに降れば降るほど、もはや草さえも生えない岩だらけのはげ山やら、ノコギリの歯のような土地の芯が洗い出されることになる。雨が降らないことに発する砂漠化は、その規模からも大問題だが、この砂漠化は一種壊滅的である。もはや農耕は言うもおろか、草さえも生える土壌がなくなるのだ。
降らない雨を降らす魔法の杖は、、、ない。少なくとも、ニジェールやセネガルといった、世界でも最貧国の部類に属するサヘル諸国に、そっちの面で打てる手はない。もっとも、以前、モロッコで私が知り合ったイスラムの高僧(イマム)は、お祈りで雨を降らせた。ほんのパラパラではあったが、確かに彼の雨乞いの祈りにこたえて、雨の滴がしばらく散った。サヘルにもその程度の祈祷師はいるだろう。しかし、それではラチがあかない。
降らない雨を降らすことは不可能でも、降った雨を有効に使う手立てならある。頭さえ使えば、そうして自分たちの労力を惜しむことさえしなければ、本来、生命のもとである恵みの水を、縦に降って横に流れてそれでおしまい、、、ではなしに、地域内に貯めておいたり、地中深く浸透させたり、さまざまな方法で有効に使える道があるはずなのだ。少なくとも、侵食の発生を最小限におさえて、今ある土壌を守る手立てはあるはずなのだ。だからこその土壌保全、砂漠化対策なのである。
サヘルには、在来の小規模、単純な土木技術を集合的に施すことで、土壌保全や乾燥対策に取り組んでいる実例は、存在する。しかしながら、私が協力隊の仲間たちと共に進めたセネガルとニジェールのプロジェクトでは、様々な用途での植樹や果樹の普及、野菜栽培などという生産面が主体となって、土壌保全の活動にまでは取り組めなかった。
雪山を見るたびに思う。じわじわと溶けてゆっくり放水する天然のこのダムが、サヘル地域にあったらなあ、、、と。傾斜地を水平に段切りし小さなダムを一杯並べた、あの千枚田。せめて水田が作れるような土質でさえあったなら、少なくとも、降雨による砂漠化の相当部分が食い止められることだろうになあ、、、と。
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