モロッコの首都ラバトは、ブーレグレグ川の川岸の「馬の渡し場」から発展したと言われている。対岸に古くから開けたサレの街とともに、行政単位としてラバ・サレ県を構成している。などと、実は、そんなことはどうでもよい。今回と次回とは、ほかならぬこのラバトとサレの間を流れるブーレグレグ川、そのほとりでの話である。
私は、気分が優れないとき、何となくメランコリック、もの寂しさに打ちひしがれる、そんな気分に襲われるとき(そりゃあ、そんな時だってありますわいな)、いつもこのブーレグレグ川まででかけた。自宅からバイクで30分ほどの距離である。
勿論、週末には海岸での釣りを楽しみにするくらいだ、海だって決して嫌いなわけじゃない。無際限だの茫漠だのの不安感と向き合いながら意を掻き立てる、海には海の色がある。けれども、身も心もはりつめて気力にみちたそんなときならいざ知らず、ふっと心が、わけも分からず凍えはじめたようなときには、のびやかで広々と、しかもおっとりしっとりと、もはやおのれの計らい全てを終わったような、人のよい大柄なモロッコ人のご隠居さんを彷彿させる、河口部に特有のおだやかな解放感が、何にもまして心地よかった。
対岸のサレとラバトの間に流れる水路の幅は2、300メートルあるであろうか。その向こう、サレの側には、水路の何倍もの幅で、砂浜とも湿地とも呼べそうな氾濫原が広がって、白壁に守られたメディナ(旧市街)の寺院や家々の姿をのびやかに見せている。勿論、橋もかかっている。しかし、比較的新しいその橋は、市民の生活の中心地からはいくぶん離れた位置にある。特にラバトのメディナ(旧市街)からは、言うならば目と鼻の先にあるサレへ行くのに、橋を渡るとものすごい遠回りになってしまう。だから、そこには渡しがある。船頭たちが胴の太いボートを浮かべて、今では馬こそ渡さないが、ラバトに来る人、帰る人、朝晩は結構にぎわう渡し場となっている。
これがみな真水なのだとそう思うと、何だかうれしくなって来る。澄み切った岸辺近くの水中には、時々、小魚の影がよぎる。赤や青、黄、緑、原色で塗りたくったボートたち。船頭たちは、いずれも、ずんぐりとしたボートの真中あたりにいる。立ったまま、舳先の方を向いたままで櫂をあやつる。左右それぞれ船端から斜めにかかる櫂を握って前に押し出す。何だか不自然な操り方に見えてならない。お客も立ったままで乗る。見ていると今にもぐらぐら倒れそうで、不安定なことこの上ない。
ボートの漕ぎ手は、通常は後ろ向きに座るだろう。そうして、力いっぱい両腕を引き付けて水を掻く。伝馬船なら立って漕ぐ。船尾のヘソに入れた櫓を8の字に漕ぎわけながら進んでいく。日本で見なれた姿に比べれば、なんとまあ、あぶなっかしく不器用であることか。だけど、今は、それでいい、どんなやり方でもいいのだ、、、何をこだわることがある。ここにはここの流儀がある。そう思えば気がやすまる。異質は異質のままでいい。ゆるやかな水の流れとボートの動きを目で追いながら、午後のひと時を過ごす。俺だってまだまだ何とかなるんじゃないか、、、と。
その渡し場の広場、川岸の景観整備の計画を一体何回やらされたことか。私に限らず、歴代の協力隊の隊員たち、フランス人やらモロッコ人、数えあげれば切りがない。図面は描いても、ただの一度も実現までにはいたらなかった。私自身はそのままがよかったのだ。
今はどうなっているのか。あの頃の、自分を包んだ風景が、今でもそこにあるのかしら?
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