カドー@

「カドー」という単語はフランス語で「おみやげ、贈り物」、要するに「プレゼント」を意味する。何も知らない国へ初めて行くときには、任地での生活がどうなるのか、そっちの不安が先にたって、気にするだけの余裕もないが、任期の延長を行ったりして途中で一度日本に帰ってきた後など、友人、知人への「カドー」が悩みのたねになる。

個人的な友人や自宅のお手伝いさんなどなら数も限定されているし、日ごろの相手の状態に合わせてある程度の見当がつくけれども、職場の関係者だとか仕事がらみの知人など複数の相手へのカドーとなると、ことはなかなか微妙である。

勤務先の上役といつも世話になる門番と、心情的にどっちがどうかは別として、やはりそれなりの差はつけなくてはなるまいし、同僚やら秘書嬢やらの口さがない連中にちょっとの差でもつけようものなら、後で一体どう言われるやら、、、などと、あれこれ考え始めたらきりがない。

これが日ごろからプレゼントのやり取りに慣れた人なら別なのだろうが、私などのように無骨不器用、しかも小心な貧乏性の人間ともなると、この品物が相手にとってどれほどの価値があるのかないのかとか、本当に喜んでもらえるのだろうかとか、全員にまともにやったら相当な量と金額とになるし、飛行機の持込み貨物の重量枠を考えれば他の荷物を減らさなくてはならなくなるがどうする、、、などと、必要以上に考え込んで自縄自縛に陥ってしまうのである。

えーい、いっさいカドーはなしだ、、、と、実はこれが一番簡単なのだが、再赴任して最初の数日間というもの、相手と顔を合わすたびに感じる気まずさといったらない。相手がどんな顔をしようが、石の地蔵さん、忍の一字でカドーのカの字も心にかけず平然として居られればよいのだが、そこは生来の小心者、少しばかりの手間と金とを惜しんで土産のひとつも持ってこない、何とお前はケチな奴だ、、、と、自虐の思いに責めさいなまれる。

相手が満面笑みを浮かべて、よく帰ってきてくれた、道中支障はなかったか、日本はよかったか、家族はみんな元気だったか、そうかそうか隣の猫も健在か、、、と、例によって例の如しで、丁寧このうえない挨拶で迎えられたりしようものなら、まるで地獄の責め苦である。まだ出さないのか、まだなのか、どこにあるのだお土産は、、、と、攻め立てられているみたいな気になるし、自分のセコさに気が狂うような思いがする。

協力隊の隊員時代のモロッコと、専門家として赴任したセネガルでの初期にその経験にこりた私は、セネガルの後半とニジェールでは、日本に帰国するたびに何がしかのおみやげを買い込んで行くようになった。幸いなことには、日本は物のあふれる国である。特に安価な時計やラジオ、携帯用のラジカセなどにはお世話になった口である。

セネガルでもニジェールでも、パトロン(だんな様)気取りで配りまくったわけではない。カドーを渡すときはときで、やはりそれなりに気をつかう。さりげなく、嫌味になったり恩着せがましくならないように、、、と、そこが小心者の小心者たる所以でもあるのだが、やる、やらない、いずれにしても「カドー」は悩みのたねであった。

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