1996(平成8)年1月27日、クーデターが勃発した。ニジェールでのことである。
ラマダン中の土曜日の、しかも昼寝の終わる時刻、午後3時過ぎ。時期的にも時間的にも一番気だるいその時に、砲声が首都の空を震わせた。
最初は、夢うつつの中で、「またあのやんちゃくれが、あれだけ駄目じゃと言うちょるに、屋根に上がって遊びよる。一発どやしつけちゃろか」と、トタン屋根を心配した。所が、当のその息子が、「お父、お父、何やら無線で言いよるぞ」と、寝室まで呼びに来た。屋根はビリビリ震えている。「お前じゃないがか」と、飛び起きた。「私の所から、何か砲声のようなものが聞こえるのですが、、、」と、O専門家の無線の声。受け答えもそこそこに、外に飛び出す。
家の前の通りの様子はいつもと全く変わりがない。しかし、空は震えている。漫画に良くある表現そのもの。空全体がドッカーンともバッカーンとも、ビリビリーンとも、カタカナ書きの巨大な文字で埋め尽くされた、まさしくそういう感じである。機銃らしい乾いた掃射音が混じる。距離感は全くない。何処で生じる砲声やら、空全体が振動して方角さえも掴めない。
目の前でタクシーが止まった。協力隊の隊員が3名、マーケットまで買い物に出た帰り、道路が封鎖されていて宿舎には寄りつけないので、逃げ場に困ってやって来たとそう話す。兵隊が銃をぶっ放すのが見えたと。
電話は全くつながらない。しかし停電ではなかった。連絡網の無線はまだ生きている。 こんな時には、私を含めて2名しかいない専門家と、JICA事務所の調整員とを中心に、在留邦人への指示と安否の確認を行う。ニジェールには大使館はもとからない。
無線に答えた全員に外出禁止の指示を出した。今居る場所から動くなと。O専門家は、彼の家の近くに住む政府の関係者に当たって、事情を探ってみると言う。調整員のTさんは無線に張り付いた形で、未確認の邦人の安否を追う。
私は車で街に出た。ラジオは通常放送を止めて軍楽隊の演奏ばかり流している。家に居たって街の様子はつかめない。
砲声は依然として止まないし、パリパリと乾いた機銃の掃射音も続いて居る。一体何処で撃ち合っているのやら見当もつかないが、とにかく自宅の近くではないことだけは確かである。
もしもこれが部族対立にまで発展して、長期の戦闘になってしまいでもしたらことである。隣国のブルキナファソまで逃げるためにも、車の燃料だけは確保しなくてはならない。ガソリンスタンドが封鎖されたらおしまいだ。街の様子が気にかかる。外出の口実はそれですむと考えた。
逃げ込んで来た隊員たちのその中で、古参の女性隊員が同行したいと言い出した。いつもなら「一緒に来い」と言う所だが、この時ばかりはそうは行かない。どんな危険があるかも知れないドンドンパチパチの最中に、女子供を連れては行けない。十分で帰って来ると飛び出した。
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