タバスキ(犠牲祭)は「羊祭り」とも呼ばれる。ラマダン(断食月)が明けて一ヶ月と十日後、イスラム暦の十一月十日に行われる祭りである。
旧約聖書の、アブラハムが信仰の証として最愛の息子を神の生け贄に捧げようとした故事にならって、一家の家長たるものは、その資金力に応じて、羊を最低一頭は殺して神に捧げなくてはならない。それがイスラム教徒である家長としてのつとめである。
お金のない人は羊より安い山羊とかあるいは鶏とかを代用しても良いことになっている。けれども、羊は必ずオスである。タバスキは牡羊にとっては来年まで生き延びられるかどうかの最大の節目となる。一方、一家の家長にして見れば、男としての沽券に関わる重大事、年に一度の羊の肉の大盤振る舞いなのである。
これがまた、私の付き合った同僚たちの、ラマダン(断食月)に次ぐ最大の悩みの種でもあった。ラマダンの食費の高騰については、長丁場である分だけ結果的には大きくなるかも知れないが、まだ小分けにして出すことが出来る。しかし、羊代はそうは行かない。一発勝負でどさっと出る。おまけにラマダンの出費の痛手がまだ十分には回復していない時期でもある。要するに羊を買うお金のやりくりに四苦八苦するわけである。
目端の利いた連中は、羊の値段が高くならない祭りの何ヶ月も前から買い込んで、自分でそれまで飼って置く。物価の高い都市に住んで居る者でも、都合さえつくなら、家で飼って置く間の餌代とその間の価格差を天秤にかけて、田舎まで買いに出かける。
したがって、モロッコでもセネガルでも、またニジェールでも、タバスキが近づくと、あちこちの家々から、ベえー、べえーと鳴き声が聞こえ始める。平屋ならいざ知らず、アパートの立ち並ぶ地域では室内で飼うらしく、二階でも三階でも所かまわず羊の声が響き始めることになる。勿論、祭りの翌日にはピタッと止む。
ニジェールの環境局の同僚であったY課長は、もともとおっとりした方ではあったが、ある年、仕事に追われているうちに羊を買いそびれてしまった。当日の朝、まだ暗いうちから飛び起きて、前日まで羊飼いたちがたむろしていた場所を、次から次へと尋ね回った。広い首都ニアメ市のことである、やはり彼と同類の飼いそびれ連中を当て込んで、それでもまだ何カ所か、羊を並べている所があった。 しかし、何カ所回ってどうかけあっても、値段の折り合いがつかない。値上がり幅が半端ではないのである。結局諦めるしかなくて、今年は家人に何と罵られようとも、羊なしで行くしかないと決心した。来年こそは絶対に三月前には買ってやるぞと。
けれども、アラー(神)は偉大である。帰り道、いつも行くモスク(イスラムの寺院)の前で、ちょうど朝のお祈りに来た友人に出くわした。いつもおっとりした彼のただごとならぬ表情に、事情を知ったその友人は、予定していた三頭のうち一頭を回してくれた。
「アッラーアクバル(アラーは偉大なり)」と、彼は私に、その翌日、いつものおっとりとした顔で語った。
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