インシャーラA

モロッコ人の「インシャーラ」は、まず百パーセント当てにならないと前回は書いた。所が、これがセネガルやニジェールとなるといささか話が違って来る。

実際、この両国では、同じようにイスラム教徒が国民のほとんどを占めているにも関わらず、人との約束事の後で「インシャーラ」を口にする人は滅多にいない。少なくとも私の付き合った範囲では、セネガルのJICA事務所の現地雇員のM氏以外には居なかった。

勿論彼は敬虔なイスラムの信者であり、いささか気前が良すぎるきらいがあって、知人やら親族やらの頼み事を断ることが一切出来ない性格であるために、その反動でJICA事務所の関係者やら、協力隊の隊員やらに借金だらけとなっている。それ以外、仕事の面では文句の付けようのないような、優秀な人物であった。

その彼が、約束事をしたら必ず「インシャーラ」を口にする。モロッコ時代に散々それで悩まされて来た私は、初めのうちはああこの人もかと、内心、さもありなんと納得していたのであるが、どうも勝手が違うのである。このM氏は、モロッコ人なら絶対に口にはしない上役からの指示に対するその時にも、平然と「インシャーラ」を口にする。そればかりか、約束を破ったことはただの一度もないのである。

ある日のこと、そのM氏に「インシャーラ」とはどういう意味だと聞いて見た。彼はさも得意そうに「これは、神の名にかけて、最善を尽くしますと言う意味だ」とそう答えた。私は、実はモロッコでは、「神様次第の話なので私の知ったことではない」と言う意味なのだと説明した。少なくとも彼らはそう言う使い方をすると。

その時の彼の顔。一瞬大きく歪んだかと思うと、ポカンと口を開いたまま、全く言葉を失ってしまった。そうしてやっと、「ええーっ」とうめき声を上げた後、「それは本当の話なのか」と目を見開いて迫って来た。「インシャーラにそんな使い方があるとは今日の今日まで知らなかった。それでは全く私の言うのと正反対の意味ではないか」

事情さえ説明すれば、相手からの申し出を拒否しても許される、そんな社会ばかりではない。気の染まない約束事でも、「あなたの言われるその内容は十分理解致しました、だけどそれが私に実行可能な話かどうかは、ご自分でご判断下さい」と、暗にほのめかしながら、受け入れなくてはならないような社会もある。

そのような社会では、相手に「ノー」と言うことは、その相手そのものの全存在を否定する大問題になりかねない。

そのためにモロッコのN氏は、友人や知人からの申し出を露骨に拒否してお互いの関係を気まずいものにする代わりに、「インシャーラ」を使って婉曲に断る。一方、職場の関係者からは借金を重ねてでも、知人や親族のために役立つ自分であろうと心がけるセネガルのM氏には、拒否の回路が全くないか希薄なために、「インシャーラ」は、彼のした約束に神のご加護がありますようにと、念押しの、いわば実印代わりの言葉となる。

「インシャーラ」も、人それぞれ、人生観の相違によって、大きな違いがあるようだ。

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