母へのプレゼント

 「採用することはできません」
私は将来のために市役所、県庁、銀行の試験を受けたが、全てが合うとだった。
市役所の試験では、ある議員に、
「優秀な成績でしたので、たぶん大丈夫でしょう」
と言われたので、自分も余裕を持っていたのが、蓋を開けてみるとみごとに全部が不合格だった。今とは違い、役所などはつてがなければ入ることはかなり難しい時代だったし、銀行は財産がなければ採用は少なかった。その証拠に、親が役所に入っているその子どもはほとんど役所に入ることができている。
 私の夢は、特派員かジャーナリストになることだったが、そんなことかなうはずもなく、目的もないままに高校生活を送っていたある日、母が突然
「弁護士になってくれ」
と、途方もないことを言い出した。私は「そんなバカなことを」と笑い飛ばしたが、底無し沼のような悲しい母の目を見た時、これは真剣なんだと実感した。とはいえ、そんなことが簡単にできるはずもなく、だらだらと月日が流れ、母は再度
「最後のお願いお願い…」
と言って、弁護士になってほしいことを言い出した。その時、どういう訳か分からないが、私もひょっとしてこれが母への最初で最後の親孝行かも知れないなと思うようになってきた。なぜかは、全く分からないが、ここで母の願いをかなえてやりたいと思い、猛勉強した。目的があれば夢中になれるもので、私は法学部に無事合格した。これまでの母の人生で、1番満足できた日。そこには、笑っている母がいた。私は、こんなにもうれしそうな母を見るのは初めてのことだった。それからわずか数か月後、母は急死した。結婚して21年、あまりにも早すぎた。
母は、当時の女生としてはとてもすてきな人でいつもきれいだった。にぎやかなことが好きで、自ら舞台に立ち楽しそうに舞っていた。若くして嫁ぎ、その家に全てをつくしきれいなままで幕を下ろした。
 母が悲しい目をするのは、私の目のことを心配していたことと、同和地区の人と付き合っていることに反対していたからだと感じていた。だからこそ、人に使われるのではない自分の実力次第で生きて行くことができる職業についてほしかったのだろう。それと昭和50年代のこと、まだまだ部落差別が蔓延していた。そんな時代に娘が同和地区の人と付き合いをしていることに心を痛めていた。そんなことをさせないために、母は自分で決めた人とのお見合いをすすめてきていたりもした。私は全くそんな気はなかったため、一度も会ったことはなかったが、隣の町の大富豪の人らしかった。その人は私のことを知っていて、「ぜひ」と言うことで知らない内に話だけが独り歩きをしていたが、私はその日、彼の家でコンサートの準備をしていた。知らせを聞いた私は、あまりにも突然のことで・・・。何がどうなっているのか分からないままに病院へ行くと、ベッドの上の母は、私の名前をよんでいた。声にならない声が、40年の母の人生そのものだった。
私はこの日まで、母をまともに見ることができなかった。いつもきれいですてきな母が、ふと悲しい目をしていた。声にならない母の声が、私にははっきりと聞こえた。そして、これは悪夢だと思った。このあまりにも静かで短い時間、旅立つ母に私は一体何ができるのだろうか……。ただただ手を握り続けていたら、心電図の波形がフラットになった音が聞こえた。父は、窓際に行き外に向かって、
「お母も死んだか…」
と抜け殻のようになったのだった。

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