17歳の秋

「君は人並み以下だ。」忘れることのできない校長の一言。私達は、でき上がったばかりの文集を校長に突き出した。それは、同好会ではなく正式な部として認めてもらうためだった。校長の反応に期待していたわけではなかったが、その時の言葉が許せなかった。「こんな問題は大人が考えることで、君達高校生がどうこうできることではありません。それより、君達には他にすることがあるのではないですか。つまらないことに気を取られないで、今は学業にはげんで下さい。」と言った。私は、校長の勝ち誇ったような態度が我慢できず、「返事は内容を見てからにして下さい。」と言うと、「担任から君の視力のことは聞いています。こんなことばかりをしていると、これから先社会に出た時に、相手にしてくれる人は誰もいなくなりますよ。君は人並み以上に良い成績を取らないとその目出は世の中には通用しませんよ。悪いことは言いませんから、今は学業にはげんで下さい。」と言いながら含み笑いをした。私は、この時二重のショックを受けた。そして、人は誰もが自分を守ることが先決なんだと思った。それは、同和問題には誰よりも必死に取り組んでいると思っていたが、自分自身のことを「人並み以下だ」と言われると、やっぱり、そのことの方がショックだった。この頃では、両親も私が学校に嫌気が差していることにうすうす気がついていた。両親は何も言わなかったが、友達関係や目のことではいつも心を痛めていた。

私の視力は、小さい時から変化はなく、いつか失明するかも知れないことなど、すっかり忘れていたが、校長の一言でいろいろなことを考えるようになった。わたしの頭の中から、「お前は人並み以下だ」という言葉が離れなかった。短い間にいろいろなことがあり、私はますます理想的な生徒像からはずれた。

サークル活動の方も正式な部として認めてもらえず、私達はアンケートを取ったり手作りコンサートを開いた。今まで、先輩は同和問題について多くは語らなかったが、彼は自分の態度や、自らギターを弾き全てを問いかけた。先輩のコンサートには、興味半分の女生徒もいたが、会場はいつも満席だった。そこでも先輩は部落問題についてあれこれと説明することはなかったが、やりきれない彼の思いは私達には分かっていた。

2年生になる春休み、私は彼のいとこと出会っていた。彼は、とても繊細で言葉少なげだった。私達は特別話しをするわけでもなく、1日中ギターを弾いていた。

サークル活動も一年が過ぎたある日、私は職員室によばれた。それは、この調子だと進級することは難しいと言う。なんと、中間テストは赤点のオンパレードのようだ。私は、呼び出しをくらったわけにすぐに気がついた。職員室に入るなり、「こんな状態じゃ進級は難しいぞ。出席日数はぎりぎりじゃし、それにこの成績はなんぞ。」と言って、担任はテスト用紙の固まりを机に叩きつけた。そして、「お前の成績の下がり方は普通じゃないぞ、つまらんことに気を取られよるけんこんなになるがぞ。親にいっぺん来てもらうけんね。」と言った。私は、成績の下がったことは親には関係ないと思い、「親には関係ない、子どもが悪い成績を取ったくらいで、いちいち親をよぶな。うちの親は、そんなに暇じゃないわ。自分のまいた種は、自分で始末するから心配するな。」と言ってやった。「期末では、何とかするから心配しなさんな。」とつけ加えて急いで帰ろうとしていたら、一人の教師が、「成績のええ生徒じゃに、おかしなことにのめり込んでもったいないことよねえ。」と言った。私は振り向き、「まあ、心配しなさんな。」と念をおしたが、正直なところ、自分でもどうすれば良いのか分からなかった。その時、誰が私のことをどう思っても、「成績のことでは文句は言わさんぞ。」と、自分に誓った。期末試験では、全科目90点以上とり担任や暇な教師には何も文句は言わせなかった。担任や友達、そして両親までも、私の成績が下がったのは、サークル活動の性だと決めつけていた。この頃では、両親の口癖は、「今日も、また同和部落の会に行くがよね。」と、肩を落とすことが多くなっていた。

私は学校をさぼり、隣保館(同和地区にある市役所の出先機関)に通うようになった。そこには、館長さんをはじめ2、3人の職員がいた。隣保館では、部落の歴史や狭山事件の話しを聞いたり、いろいろな世間話しをした。先輩はその部落の出身で、いつしか私達は先輩の家に集るようになった。そこは、裸電球が1つあるだけだったが、なぜか、全てが満ち足りていた。私はその部屋で、善悪全てと、そして、差別の現実を見た。この溜まり場で知ったことは良いことばかりではなかったが、全てが自分そのものだった。

学校をさぼりがちな私を見て、「話しが合わない。」と言って友達も私を無視するようになった。私自身も、全てのことに板挟みになったようで、どうすれば良いのか分からず学校をやめることも考えた。学校からも自分からも逃げ、そして、全てが楽になりたいと思った。それでも、退学することに決心がつかなかったのは、やはり、両親の存在が大きかった。今迄両親には目のことだけではなく、いろいろなことで心配をかけてきた。せめて、学校のことでは心配かけたくないと思っていた。

2学期も終ろうとしていたある日、私達の同好会が正式な部活としての条件を満たし、多くの仲間が集った。小さな部室もでき、努力したかいがあったとうれしかった。この日が来るまで、全てが手作りで模造紙1枚なかった。私達は、他の部に頭を下げ印刷用紙を分けてもらい、こず買いの中からポスター用紙を買っていた。

この頃になると、生徒の中にもいろいろな矛盾を感じる者も増えてきた。私達は、いろいろな考えをぶつけ合うようになった。部活動として認めてもらうために、私達は隣保館の館長さんの話しを聞いていた。その時の話しの中で、さまざまな反発や憤りを感じた。質疑応答ともなれば、生徒自らが疑問をぶつけるようになった。

同和問題研究部として再スタートした落研部だったが、私達には責任が大きすぎた。それは、先輩が卒業を迎えていた。彼は、最後のコンサートに全てをたくしていた。

3学期も終ろうとしていたある日、私達落研部あげて先輩のコンサートに取り組んだ。それは、これまでの2年間の恩返しだと思い力の限りを尽くした。私達は、放課後になると部室に集り、コンサートに向けてあれこれ準備をした。卒業式の前日、最後のコンサートが始まった。私達は、このコンサートを「もく拾い・ラストコンサート」と命名した。

コンサートは静かに始まったが、先輩からのメッセージに女生徒の中には泣き出す者もいた。そして、歌い終えた専売も泣いていた。この学校に入学し、先輩と出会い多くのことを教えられ、そして、いつも何かを問いかけられた。私自身、まだまだ全てのことに結果を出すことはできないが、先輩に出会えたことを忘れることはない。先輩の卒業と同時に、いとこの彼も学校を辞めた。私は、やりきれない寂しさで・・・・・・。

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