(19)胸を張ってかっこよく! 私は、この訓練で、最後まで注意されたことに、歩行の際の「姿勢」があった。視覚障害者の歩行は、とかく、うつむきかげんになることが多い。私も、例外ではなかった。と言うより、むしろ、ひどい方だった。私は、今までわずかな視力を頼りに、道路を確かめながら下を向いて歩く癖がついていた。訓練中も、姿勢のことで、何回も注意を受けた。ひどいときには、「姿勢・顔・腰・もっと手を振る・・・。」などなど、一度に、いくつも注意された。頭の中では、”胸を張って歩こう’と言うことは解っているが、長年の癖は、そう簡単には直せない。緊張すればするほど体が固くなり、ますます、うつむきかげんになり、またまた、「姿勢。」の声がとんできた。
協会の基本事項の中に、「胸をはってかっこよくどうどうと!」と言うことも、大切な位置をしめている。姿勢を、ただして歩くことは、思ったよりも難しい。せっかく、一人歩きができるようになっても、うつむいてしまっては、さまにならない。
私は、何年か前に、道路のわきを足先で確かめながら歩いていたら、「こあらい(子育て)の最中に、目がうすうなってむごいことよねー。」と言われたことがある。その当時は、私自身も、現実が受け入れられずおちこんでいた。「世の中で、自分は一番不幸だ。」と思ったこともある。失明した当時は、見えなくなった事を、知られるのがはずかしくて、背伸びをしていた。私は、ときどき、「傷害をのりこえ、立派に夢をかなえた。」などと言う、講演を聞くことがあるが、うらやましい限りだ。障害者の中に、「傷害は個性で、気にすることではない!。」と言う者も少なくないが、私は、そう思うことができない。
日常の暮らしの中で、「ほんの少しでも見えたらなあ・子供の顔が見たい・・・。」など、いつも、「見えない」ことが気になっている。意識しているわけではないが、現実は否定できない。私は、だんだん視力が下がり始めたころには、「少しは、かわいそうに・・・。」と思ってくれるだろうか?と、自分の方から思ったこともある。現実と向き合えない時期は、どうすればよいのか?解らない。そこには、口では言い表せない悲しみがある。
自分自身もそうだが、人はよく、「頑張って、前向きな考え方をしましょう!。」と言うが、この事は、現実を受けいれ、向き合うことができたとき、はじめて解ることだ。傷害を受け、どうしていいのか?解らず、悩んでいるときに、「前向きにがんばれ・がんばれ。」と言うのは、無意味だ。前向きにがんばれるのは、ある程度時間がたち、おちついてからだ。それより、”大きな心で、包んでもらえることが、いちばん気持ちがおちつく。’傷害の大きさにもよるが、私は、そう思っている。
学校や職場で、障害者を見て、「かわいそうに!と言ってはいけない・思ってもいけない。」などと教えられているようだが、決して、そうは思わない。なぜなら、突然の事故で、親・子供、あるいは友人が、歩くことができなくなった場合、「かわいそうに・本当にむごい事よ・・・。」と思うのは、人として当たり前で、善悪をつけたりできるものではない。
確かに、障害者の中にも、「同情はやめてほしい!。」と言う者もいるが、それ派、個人の生き方であり、悪いことではない。要するに、「言ってもよい・悪い。」などと、決めつけることではなく、「かわいそう!」と言う気持ちがあるなら、自分にできることを見つけてほしい。傷害をもっている人を見て、「不自由そうだな・つらそうだな・・・・・・・。」など、何かを感じなければ、何も始めることはできない。
私は、いぜん、「点字を書くようになっては、自分も終わりだなあ!。」と、本気で思っていた時期があったり、白杖にも抵抗があり、なかなか使えなかった。それは、ぞくに言う、「前向きな考え方」が、できなかったからだ。私が、その時実感したことは、「考え方一つで、生き方が変わる!!。」と言うことがある。今まで、「自分も終わり」だと思っていた点字のことにしても、「点字は、終わりではなく、これから、またはじまるんだ。」・「悪いのは、目だけだ。」と思えるようになり、いろいろなことが、ずいぶんらくになった。「見えない」と言う、現実は変わらないが、考え方ひとつで、気持ちに大きな差がでてくる。
障害者問題は、とかく「美化」して語られることが少なくないが、きれいごとでは、生きてはいけない。「個性だから、気にするな。」などと言うことは、私には、できそうにない。と言うより、気になる時の方が多い。 「見えたらなあ」と思うことばかりだ。現実と理想はちがう。人は、それぞれ、考え方や生き方がちがう。十束ひとまとめで考えるのではなく、個人・個人を知り、ごく自然に接してほしい。
戻る 次へ メニューへ トップへ