自然破壊が問題だ?薪炭材、森林、植生の破壊?それならばガスや電気を使えばいい。森林への依存は確実に少なくなる。日本の山を見ろ、薪や木炭を使わなくなったおかげで、茂って茂って荒れ放題だ。簡単な話ではないか。
それはそうだ。けれどもガスや電力は使おうにも使えない。農村には買うだけのお金がない。都会でも日々の薪が精一杯で、ボンベやコンロにお金を払う余裕のない、貧困家庭が多数をしめる。企業活動として成り立つ需要・供給の基盤があまりにも薄すぎる。
産油国でもないサヘル諸国の政府には、国民にガスや機材を支給できる力はない。石油の輸入ひとつとってもいつまで保証できるものやら、政府自体が虫の息で、公務員や学校の教員の給料でさえまともには払えないありさまだ。
人間が長い間生身のサイズで生きてきた、便利な道具や機械を使うこともなく、資本の力や権力やシステムに乗っかって人の労働を搾取する、蓄積するなどということもなく、単純素朴な家族主体の生産と消費を基盤に生きてきた、言うならば原始的・基本的な、人間の等身大でのあり方が、今もなお底流にあり主流でもあるこの地域。土地や水、樹木や草、自然と簡単素朴な手段だけでじかに向き合うシンプルな生き方。
その地域が、生き方が、今、砂漠化によって基盤を破壊されようとする時に、先進西欧型文明社会の道具や図式を持ち込むことには、物、発想それ自体の適不適もさることながら、大きくしかも根本的な断絶と障害がつきまとう。それぞれのよって立つ基盤もその厚みも、意識すらも両者はまったく別物なのだ。そこには、ことの良し悪しは別として、何世紀もの間別途の道を歩み続けた人類の持つ二つの社会の似て非なる顔がある。
先進西欧型の文明社会になれ親しんだ人間が、原始的ともいえるサヘル地域での生き方をするためには、多くのものをそぎ落として捨てさり、諦めなくてはならない。それは単に身の回りの「物」「システム」にとどまらず、「意識」「無意識」の次元にまで及ぶ。
反対に、サヘル地域の人間が文明社会の恩恵を享受し活用しようとするためには、膨大な質・量の学習と習熟とその蓄積が必要になってくる。それまで一切不要だった雑多なものを、ガラクタや毒物までも含めて、心身ともにまとわなくてはならないのだ。
外来の数多くのプロジェクトが持ち込んだ物品やアイデアが、終了後、日もたたずに残骸に成り果てるその一因は、サヘル社会そのものの持つ人間の生き方・文化と先進西欧型文明社会のもつ特性とのギャップ、似て非なる二つの顔のギャップにある。それは両者の貧富の差や教育水準の差などだけで説明できることではない。
石油、ガスなど化石燃料の大量消費によって得られる利便性と引き換えに、私たち先進西欧型文明社会の人間は、意識もなしにかけがえのない大気を汚し海洋を汚染し、地球規模での異変を生み出す。複合し肥大化したからくりの中で、何が本当のサイズやら自己の等身像を見出すことに苦しむ社会。実体感のともない難い日々の現実の中で、数として機能として尊重されしかるべきポジションを得ることと、生身の人間、自分サイズの人間として立つこととのギャップに悲鳴を上げ続けてきた社会。そんな社会の私たち、私自身は、やはり行き着くところまで、この社会で、工夫しながら歩んでいくしかないであろう。
サヘル地域の人々は砂漠化という悪意に、等身大で立つ人間として立ち向かっていくしかない。我々文明社会とは違う、歩いて歩いて歩き回って引っ張り出した自然の悪意を、歩いて歩いて歩き回ってなだめすかし、折り合いをつけていく、そのための努力こそが彼らに道を開いていく。先進社会との接点は彼ら自身の主体の中に見出されるべきことだ。
地球は狭い。砂漠化を通じて、今、人類とは何か、人間の英知とは何かが、双方で問われている。
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