砂漠化D

ただでさえ森林や原野をひらいて農地化が進み、自然へのストレスが高まる中、一九七〇年代の半ば頃から降雨量が激減した。植生が天候の異変によって大きな脅威にさらされる時、人間が追い討ちをかける。家畜がそれに輪をかける。
旱魃が続けば草はへり、枯れる木は増える。農作物が不作・凶作となった時、農民たちは薪を売って生き残る助けにする。草原の遊牧民の飼う家畜は少ない草を求めて、砂地にのびた根までかじる。エサの少ない草原から南の農耕地帯へと移る時期も早まる。遊牧民とまだ農耕中の農民との間に、いさかいが起こり対立が深まる。自然の破壊と人間の共存関係の破壊とが、少ない雨で、同時に進行する。そうして砂漠化の悪循環が定着する。
自然保護と管理を中心におく森林法では樹木は国家の管理下にあった。たとえ自分で植えた木でも、伐採には森林局まで出向いて許可を受けなくてはならない。植樹をしても自分たちの自由にはならない、いずれ国家に干渉される、そういう下地と意識が根強く存在した。森林法の改正が長い間議論された。
森林官たちは民間レベルでの植林・植樹が不可欠であることを悟った。しかし、そこにはジレンマがあった。今の今まで取り締まりが主体。まさしく命がけだった。伐採の現場をおさえて何人の森林官が藪の中で殺されたか。おいこらのコワモテ、恐い人であってこそ法の番人たり得たのだ。それが今度は取締りの銃を捨てて苗木を配る。植え付けの指導をする。農民たちの仲間になる。双方の不信感がくすぶる中で、官営の植林とは違って、農民たちにただ働きで木を植えさせねばならない。しきりに研修がなされた。
突破口は外国からきたボランティアたちだった。ティエス州では何ヵ所かアメリカ系のNGOと平和部隊の指導によって村人たちが植林した。そうしてユーカリの林がわずかながらも目に付き始めた。日本も青年海外協力隊を中心とするチームでプロジェクトを始めた。
木を植えるただそれだけのことのためにも、地域のもつ社会的な歴史、背景、地権などの諸権利、自然条件、適合樹種、労働力、執行体制、ありとあらゆる要因がつきまとう。
人間の多い地域には植林にさけるだけの土地がない。仮にあっても農耕に適しない、かつての林が破壊されたまま残った、固い岩盤だらけの場所でしかない。最後の手段は農地の一部をつぶすかどうかと判断を迫られることになる。
 人間の少ない、遊牧民たちが家畜を追って移動する降雨量の少ない地域は、植樹をするにも人間の手が足りない。木を植えてまで育てるだけの意義に合意がともなわない。
目的を公的分野に限定した国家直営の活動の時代から民生用の植林・植樹にいたるまで、さまざまな紆余曲折、試行錯誤が繰り返された。砂漠化対策のための多様な活動の中で植樹ひとつを取り上げても、官営、村有、大規模小規模、薪炭材、砂丘固定、防風、防砂、土壌保全、保水保湿、多目的、複合農園タイプなど様々な形態が試みられた。
そうしてそれらの活動の基本となる援助の理念は、誰がどこで言い出すのかは知らないが、次から次へと変わっていった。新しい指針を示すキャッチフレーズは、あっという間に古びてぬりかえられて行く。まるで西洋の哲学史だなと、私自身はそう思った。
砂漠化対策の現場には、それではもはや通用しない時代遅れの発想・手法だとして、放棄され使い捨てにされた「哲学」とプロジェクトの残骸が、まだ生乾きのものを含めて、ゴロゴロある。工夫に工夫を重ねて現場の抱える様々な要因を乗り越え取り込み、必死の思いで進めてきても、何も知らない人たちからは、なんだたかがこの程度か、そもそも出発点から間違っていたのだと知ったかぶりの批判を受ける。みごとな林を残してさえもだ。活動期間を終えたが最後、その瞬間から荒廃が始まって錆びつく。勿体ない話である。
「持続可能な開発」が現在のキーワードとなってからしばらくたつ。

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