砂漠化B

セネガルに着任して初めて、私たちのプロジェクトの対象となる現場の地域を訪問した時、私は、正直言って、一種拍子抜けした気分になった。砂漠化が叫ばれているはずなのに、予想以上に樹木も多く緑一杯に思えたのだ。
「なんだ、砂漠化砂漠化というから、砂ばっかり土漠だらけの、人間なんかとうに逃げ出したような所かと思ったらこんな場所か。」
今ならそんなことは言わない。しかし、当時はそう思った。こんな緑だらけのしかも国内でも上位に入る都市とも言うべき町の近くで、何が砂漠化対策だと。
私たちは、砂漠化と聞くと、どうしても、押し寄せる砂、埋もれる畑、牛の死骸、立ち枯れのねじれた樹木を思い浮かべる。自然の悪意が露骨に襲いかかってくる中で、なすすべもなく呆然と立ちつくす人間。必死になってこらえながらも、ついには追われ逃げるしかない飢餓と貧困の姿。砂漠化対策とは、そのような人々を守り支え、自然の脅威を押し返すそんな試みなのだろうと。私だって当初はその程度の認識でしかなかったのである。
しかしながら砂漠化は、たとえて言うなら、人間の一生に似ている。人間は生まれ落ちた瞬間から老いに向かい死に向かう。草も生えない砂漠や土漠が人間の営みを拒否する意味で死とするなら、砂漠化は二十代には二十代なり、五十代には五十代なりに忍び寄る老い、深まっていく死の影に似ている。人間の生命が、事故や病気や不摂生やもって生まれた体質などに左右されて、いつ突然終わるかもしれない脆い存在でしかないように、密林から疎林、草原、砂漠へと連なっていくこの地域も、それぞれに脆い生態バランスの上で辛うじてその姿を保っている。まるで人間そっくりなのだ。
砂漠化にさらされている地域は、今老衰で息を引き取ろうとする瞬間から元気一杯活気に充ちた青年期まで、言うならばもはや人間の活動を放棄するしかない場所からその背後に存在する見た目には緑豊かな地域まで、全ての地域を網羅した広大な帯を形成しているのである。見た目だけで判断はできない。要するに程度の違いはあったとしても、同様に砂漠化という死の影によるストレスを受けていることに変わりはない。
砂漠化対策の仕事は、乳幼児から青年、壮年、すべての年代それぞれを対象に展開される保健医療の活動に似ている。事故を回避し、病気を予防し治療を施し、不摂生を改めて、それぞれの年代なりに健康を守り、維持し、あわよくば拡大して行こうとする、そのような活動なのだと言えよう。
そうして、活動的な青年、壮年世代が社会を支えていくように、緑豊かでまだまだ余力のある地域には、たくさんの人が住み、農耕をはじめとする多様な活動が存在する。働きざかりの健康を守ること、活力を維持することが、シルバー世代の老化防止と充実を含めて、私たちの社会を支える大きな課題であるように、一見砂漠とは縁のなさそうに見える地域の問題は、見た目以上に重要な意味をもつ。人々の活動が盛んであればあるだけ、様々な過ちやストレスがあるのだ。
砂漠化は人間の老衰から死に向かう姿に似ている。しかし、そこには、当然のことながら、根本的な違いがある。人の一生は死への一方通行でしかない。しかし、自然はまったく違う。人間とは違う長い長いサイクルで生き、衰退と再生を繰り返す。やり方次第で衰弱を遅らせ、もう一度活力を取り戻す可能性がないわけではないのだ。
温暖化に起因する様々な変異の中で、サハラ砂漠の南の地域いわゆるサヘル地域では、それまで踏襲し通用してきた農耕をはじめとする土地利用や生活の形態が、重大な危機を迎えている。そこでは今、人類とは何か、人間の英知とは何かが問われ続けているのだ。

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