砂漠化@

砂漠化が世界の大問題となっている。と言っても、ピンとくる日本人はそう多くはない。新聞やテレビの番組で時折伝えられることがあっても、自分たちの周囲には砂漠もなければ、砂漠化が懸念される地域もない。だから、所詮は他人事でしかない。当然といえば当然のことである。
しかし、現代という時代は、何とも始末におえない時代である。ありとあらゆる現象のことごとくが、様々な要因の結果であると同時にまた原因でもあることが認識され、何ごとといえども何びとといえども、単独では存在しえないそんな時代。人はどんなところでどんな悲劇の引き金を引いているやら、知れたものではないと分かったそんな現代。本気で考え込んでしまったら、息することさえ罪悪になりかねないくらいである。
世界は狭くなった。交通手段の発達によって外国へも簡単に行ける。私の住んでいる宿毛市からでも、3日目にはアフリカのセネガルの首都ダカールで、独立広場のこそ泥相手に虚々実々にでも丁々発止とでも、やりあうことは可能なのである。
電話ならリアルタイムに直通で話ができる。インターネットでのメールのやりとりもできる。その意味では確かにアフリカと言っても想像を絶するような遠い所ではない。世界は狭くなったのである。
しかし、そのことを否応なしに認識させずにはおかない諸々の事柄の筆頭は、何と言っても大気である。地球を包み、国境もなにもなしに流れ動き循環する、ただひとり人類のみならず地球生命全てにとってかけがえのないこの大気が、現代くらい地球単位で論じられ捉えられた時代はおそらくなかっただろう。
地球の小ささ、世界の狭さを、大気に関する報道くらい強烈にアピールしてくるものはない。しかも、それが、私たちが見上げて想像するよりも遥かに脆くかぼそい薄皮でしかない上に、自分たちの日常の生活の結果として、全く想像さえもつかないとてつもない離れた場所で災害を生み、悲劇を生じる媒介となっているというのだ。
大気中の二酸化炭素の増加にともなう温室効果が、世界中で気候の変動を引き起こしている。南極や北極の氷や各地の氷河の衰退は言うまでもなく、中国南部の旱魃やらアメリカやヨーロッパを襲う洪水やら、異常気象の報道はあとを絶たない。
本来乾燥して、寒冷ではあっても雪として降る水量は少ないはずのモンゴルに、湿潤な気団が流れ込んだ。そうして起こった大量の降雪が家畜の飼料不足による大量死を招いた。ちょっとした大気の異変が大きな災いのもととなる。このような激発型の異常気象は大きな人的・物的な災害をわずか数週間、数日、数時間で引き起こす。
それに対して、砂漠化は、人類をじわじわとおろし金にかけるみたいにしてかじり取る、慢性化した現象の一つである。砂漠化の問題はその抱える地域の規模の大きさや深刻さとは裏腹に、旱魃や飢饉といった劇症型の異変をともなわない限り、映像として表現しにくい側面をもっている。特にテレビなどマスコミの報道の対象とはなりにくいその性格からしても、私たち日本人の意識に上ってくることはめったにない。
一九八六年十二月、その砂漠化対策のプロジェクトのために初めてセネガルに赴任した当時、西アフリカ・サヘル地域の砂漠化が世界的な問題として注目されていた中で、私にはそれが一体何であるのか、砂漠化対策がどのようなことなのか、全く見当さえもつかないような状態だった。
その意味では、この文章をお読みいただいている多くの皆さまと、おそらくは同じ程度の認識しかなかったということになる。

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