バオバブの盆栽。どうやって作るのか。種子から育てて作れるようなものとは違う。そんなことをしていたら、一体、何世代かかるやら見当もつかない。
山奥の崖や岩場に辛うじて根をはって、過酷な条件の中で生きてきた、天然生の古木など、ことバオバブに関しては、まず、想像もつかない。一体、どんな遠くまで行くのか、どんな奥地まで行けば、そのまだまだ一杯あるという盆栽向きのバオバブが見つかるのか。なだらかな平地に多少の起伏があるだけの、このセネガルの一体どこをどう探せば、盆栽になるような木の張り付いた岩場が見つかるというのか。
そんな私のああでもないこうでもないの思いとは裏腹に、バイディーはわき道に入るように指示した。私は、エッと一瞬驚きながらも、言われた通りに車の方向指示器を出した。まだダカールを出てほんの二、三十分しかたたない。しかも一面畑ばかりの、農耕地のど真ん中。示された草地の上に車を止めた。
これがそうだ、、、と彼は言う。私には何がなにやら分からなかった。こんもりとした雑草の茂み。これのどこがバオバブなのか。バイディーは茂みの方に近寄ると、草を左右にかき分けた。そこには見慣れた葉があった。紛れもない、バオバブの葉っぱが、、、。
ずんぐりとした胴から、腕と呼ぶにはまだ細すぎる小さな枝が、それでも何本か出たバオバブ。高さは1メートルにも満たない。この日私は、そのようなバオバブをいくつ目撃したことか。これで、セネガルの出展は決まりだ、、、と、改めて確信した。これで本気で、大阪の花博に出す屋外展示の設計にかかれるぞ、、、と。
しかし、この一連の小型のバオバブ。私は、その存在について、日本の関係者には「ある」としか、この文章を書く今の今まで一切明らかにはしていない。それが一体どこにあるのか、どうしてそれが出来るのか、めったに知られでもしたら、それこそ根こそぎ、はるか海の彼方から、やれ掘れやれ掘れ、、、とんでもないお話になりはしないか、そんな風に思ったからだ。時代がそんな時代だった。
バオバブは十数本を日本へ送った。砂漠の砂も九十トン、砂丘作りに船積みした。
新聞はセネガルの出展を好意的に取り上げ、何度も報道してくれた。後日、「花と緑を愛する人々のための園芸博覧会なのに、いつの間にやら環境問題にテーマをすりかえられてしまった。中には砂漠化と称して、砂漠の砂をもちこんで砂丘まで作ってしまった国さえある。」と、苦情があったと聞かされた。
博覧会の期間中、バイディーは会場に常駐した。終了後、出展されたバオバブは、セネガルへの植林ツアーの主催などでもお世話になった「大阪国際交流センター」に一株、ほかのほとんどについては、花博出展に多大な資金協力をいただいた松下電器労組の関係する「ユニトピアささやま」に寄贈されたと聞いた。
売れなかったか?二十万円もらった、とバイディー。それが誰か、どんな組織か、そこまでは聞きもらした。出展されたバオバブの全部の行き先までは知らない。私には砂漠化で苦しむサヘルの国々への関心を多少なりとも高めていただければよかったのだ。
今、日本にバオバブが何本あるのかは知らない。小型のものは上に書いた2ヵ所にある。もっと大きいサイズのものは、京都府立植物園に一本。これは別途の企画で送った。
いつだったか、園長さんから、そろそろ花が咲かないものだろうか、、、と、聞かれた。
この一本、バイディーと掘り出しに行った時、「あんた、日本に嫁入りしてくれないか」と、一声かけてから掘った。もう何年になるか、京都では一度見たきり見ていない。
他家に嫁いだ「娘」の姿を、恋しいとは思っても、見に行くだけの度胸は、まだ、ない。
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