私は青年海外協力隊の隊員たちと組んだプロジェクトとは別に、もうひとつ、ダカールの本庁である土壌保全植林局で、日本がらみの案件を中心に担当する顧問役を務めていた。
あれこれの経緯は省略するけれども、一九九〇年に大阪で開催された「花博」、あの「花と緑の博覧会」に、セネガルも出展参加することになった。しかも、その担当部局は、私が局長の技術顧問として勤務している土壌保全植林局。当然のこととして、日本人である私が、一番の主力となって事業を進めなくてはならない立場に置かれたわけである。
砂漠化に苦しめられている国が、「花」と「緑」の万国博への出展をというのも異なものではあるが、招請され、参加を決定した以上はやらなくてはならない。会議の結果、テーマはやはり「砂漠化」ということになった。そうして、セネガルを代表する樹木であるバオバブも送ろうではないか、、、と。
実際、私は、こともなげに「バオバブ」の名を口にする植林局長や各課の課長たちに唖然とした。あの、バオバブ、、、バ、オ、バ、ブをだぞ。一体、どうやって運ぶのだ。どうやって掘り取るのだ。
しかし、彼らは落ち着いたものだった。BONSAIがある、、、と言う。えー?ボンザイ? 盆栽か? あの、ずんぐり、図体の大きさが取り柄の、あの、バオバブの盆栽?本当か?もしもほんとの話なら、お目にかかってみたいものだ。にわかに信じられる話ではなかった。
ところが、これがあったのだ。それも、一本や二本ではない。ダカールのある園芸家が、ひそかに集めて、自分の経営する園芸品売り場の奥深く、ひっそり、ちゃんと、まるでかくまうようにして陳列していたのだ。
局長のN氏からその園芸家の名前と職場の場所を聞いて、私は早速出かけて行った。植林局からさほど離れていないその場所では、庭園用、室内用、さまざまな植物が売られている。一種の園芸団地となっていて、それぞれに持ち主の異なる雑然とした植え込みが五、六百メートルほどあるであろうか、連なって続いている。
彼の名はバイディーと言った。まだ三十代になったかならぬか、予想したよりはるかに若い彼の笑顔に当惑しながら、私は、奥へと入っていった。そうして、並べられてある盆栽に目を見張った。たしかに、それはバオバブだった。論より証拠、、、その瞬間に、私の大阪花博への出展構想は決定した。
バイディーに、この盆栽を大阪で開催される博覧会に出展する意志があるかと、確認した。どうしても手放したくないいくつかの品を除けば、大阪へ送っても良いと言う。しかし、それでは数が足りない。それに、屋外展示で砂漠化の現状を伝えるような庭園づくり、景観づくりをするためには、もう少し大振りなバオバブが欲しくもある。
バオバブの若い木は、一見して、何の変哲もない、すらっとした姿でしかない。デーンと大きく、小錦が胡坐をかいたような胴から、何本もの腕が突き出ているような、バオバブの古木の風格を予想させる、そんな若木があるはずもない。
しかし、それがある、、、と言う。
「もっと大きなサイズでよければ、まだまだ一杯ある。ここに集めているものは、中でも小ぶりなものばかりで、もう少し大きくてもいいのなら、在り処を自分は知っている。運搬や掘り取りにかかる人間の工面さえつくなら、必要なだけ集める。」
盆栽で度肝を抜かれたその上に、まだまだ一杯ある、、、には参った。
日本はバブルで浮かれ騒いでいる。何でも珍しいものなら、誰かが狙う。バオバブの盆栽、鉢植えと聞く人が聞きつけたりした日には、、、。私は内心、冷や汗のでる気がした。
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