Cさん、、、州森林局長@

「ムッシュー・ヤマト大変です。すぐにティエスまで来てください。プロジェクトはもうお仕舞いです。もうこの州には居られません。」
ダカールのJICA事務所で受けた電話。私たちのプロジェクトの現地側担当になっていたティエス州森林官のDさんの慌てた声が耳に響いた。
協力隊チームのある隊員が、ティエス州森林局のトップであるC局長を撲った。局長はカンカンに怒って、今度という今度はもう勘弁ならない、警察に連絡してその隊員を逮捕させる、プロジェクトももう追い出す、あんな連中などこの州には要らないとわめき散らしていると言う。
プロジェクトの予算で買ったトラックがあった。隊員たちが村回りのために、駐車してある州森林局内のガレージから出そうとした。あの車はお前たちの自由にはさせないと、C局長が門扉の鍵を渡すことを拒否した。以前から彼はそのトラックに食指を動かし続けていた。ことある度に流用しようとしたのである。
プロジェクト専用の俺たちの車だぞ、何だこいつ、、、と、ムカッときたその隊員が、手を出した。警察からはまだ何とも言っては来ていない、まだ局長はその方面では動いている風はない、しかし、それも時間の問題だとおびえきった森林官のDさん。私は、車で二十分ほど離れた私の所属先である「植林局」へと走った。そうして、N局長と会った。
この当時、セネガルでは、急激に増えた国連をはじめとする先進諸国からの砂漠化対策の活動の取りまとめと調整の機関として、新たに「植林局」が設置されたばかりだった。局長と三名の課長、それに数名の局員だけが、もともとあった「森林局」の本体に接木された、変則的な二頭体制。ダカールには「森林局」と「植林局」がそれぞれの局長の指揮の下に併存しても、プロジェクトのサイトとなる州レベルでは「森林局」しかなかった。
初老、大ベテランの州森林局長Cさんと、中堅、気鋭の植林局長Nさん、私は二人の間にあって、それなりにプロジェクトを泳がしかけていた時期だった。
N局長に概略を説明した。午後には、現場のティエスへ行く。ことと次第で、プロジェクトを撤退させることも視野に入れなくてはならなくなる。どうするか。
N局長は、当初から、ボランティアを直接州森林局に入れることに対して懸念を表明していた。わが国の状況を考えれば、必ず、なんらかのトラブルが発生するに違いない、、、と。それでも、プロジェクトの撤退は何としても防がなくてはならないこと、C局長には良からぬ風聞が日頃から伝わってきていること、この二点を確認した。
午後、ティエス。ダカールから七十キロ、車で一時間あまりの距離である。森林官のDさんは今回はもうだめだと、引きつった表情で迎えた。自分は撲ってなどいない、ただ胸を二、三度小突いたとD隊員。非は、プロジェクトのトラックを横取りして自分勝手に使おうとした先方にこそある、謝るべきはあっちの方だと主張する同僚の隊員たち。
いかなる理由があろうとも、暴力を振るった、しかも森林行政の州レベルでのトップ、雲の上の人とも言うべき州森林局長に対して、無礼な振る舞いをしたことに変わりはない、いいからお前は何も言うなとD隊員には言いふくめた。
C局長と私とは個人的には決して悪い仲ではなかった。ごま塩頭の、定年を数年後に控えた彼に対して、私はそれなりの敬意をはらってきたつもりであった。彼の官舎で昼食をご馳走になったことは何度もある。しかし、若い隊員たちと彼とは、どうもしっくり行かなかった。プロジェクトの機材、特にトラックの使用を巡っての確執があった。
C局長は森林局に隣接した局長官舎の中にいた。

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