我が人生を振り返って

 この世に生を受けて、あれよあれよという間に67年が過ぎた。思い起こしてみると、決して平たんな人生ではなかった。中でも失明という現実が自身を苦しめた。コロナになるまでは、週に2回ほど近くのカラオケ喫茶に行っていた。何回か行く中で、来ているお客さんも私が目が見えないことを知り、驚いたり関心したりすることも増えてきた。ある時など、一人の中年女性が座席まで来て、
「あんたは目が見えん言うて聞いたけど、本当かい?」
と聞かれたり、
「あんたはえらいねえ。私ラら死んじょうぜ」
と言われたりすることも少なくなかった。
その人にとっては誉め言葉だったのだろうが、本人を前にして言うことではない。それに、私が歌う時には、皆がモニターを見ている。それは、間違えていないだろうかということを確かめるために。最初は知らない内は人に歌詞を読んでもらっていたが、人によって上手下手があり、どうも歌いにくいため、歌いたい曲の歌詞はすべて覚えることにした。カラオケに行っているころは、3番まで歌える歌が少なくても100曲は合った。歌詞を覚えるには少々のコツがいる。それは、この歌詞はどんな風景だろうかということがある。そのイメージができれば、歌詞の頭をチョコちょこと覚えてさえいれば自然と歌詞が繋がってくる。とはいえ、今の若い子の歌はそうもいかず、歌ったりすることはほとんどない。というか、歌えないことが多い。そんなこんなで週に2回ほど行っていた喫茶にも、コロナが流行り始めて一度も行ったことはないし、買い物も最低限にしている。まあ、どこにいても罹患する時にはするだろうが…。
 最近の日課と言えば、学校などがない日には、母屋に行ったり孫の風呂だしに行く程度になっている。それと、たまに花木の手入れをするくらいだろうか。花木の手入れと言っても団地の建て替えが待っているため鉢数を増やすことはできないし、新しい花木を買うこともしていない。
 今自分の中で一番しんどく思うことは、やはり脳から視神経に繋がる伝達エラーだろうか。原因は分かっていて、手足を切断しているにも関わらず、ないはずの手足が痛かったりすることと似ているようなもので、視角で言えば幻の物体を網膜が映し出し、おかしなものが見えるという仕組みらしい。視神経伝達のエラーで、幻視の一つではないかと思う。病名は、「CBS」という。これは原因は分かっているが、治療法が今一つ確率されてなく、光を全く感じなくなれば治る可能性があるらしいが、それも定かではないため、一生の付き合いになるだろう。
 それにしても、母の人生は短かったし、父は家族との縁が薄い人だった。父は小学校に上がる時にそう祖母が実家に引き戻した。父方の祖父は宮大工で日本中を飛び回っていた時に連れ合いと知り合い、そのまま大阪にいつき、長男だった父だけが呼び戻されたらしい。
父は私が失明したことを知っていたが、母は知る由もなかった。今考えるとよかったのか、生きてくれていたらもっともっと見習うこともできたかも知れないし、手を貸してくれることもあったろうにと思うが、考え方を変えると、知らなかった方が心配が少なかったのかも知れない。
 誰の人生もそうだろうが、『やまない雨は降らないし、風も片方からは吹かない』ということを経験するだろう。
 結婚して45年余り、3分の2は見えない結婚生活になってしまったが、二人の子どもに恵まれ、それぞれが所帯を持ち元気で暮らしている。地位も名誉も全くないが、何と言っても健康が一番ありがたく思う。
 来年度からはこの団地の建て替え工事が始まる。たぶん二年ほどはかかるだろうが、住んでいる場所によっては一年で入居することができる。自分たちが住むタイプは4DKですべてがフラットになっている。2個1の立て方だから、息子たちとは玄関は違えど隣同市になるらしい。あまり遠いと行き来が大変になるが、近すぎるのも善し悪しではないだろうか。まあ、隣の家の玄関まで行くにはフェンスをぐるりと回らなければならないらしいから隣というだけで完全に独立しているため、軒を通って行くようにはないだろう。
 これから何年新しい家に住めるかは誰にも分からないが、家族に迷惑をかけないようにしまいがつけばなあと思っているが、それも先のことは誰にも分からない。だからこそ、今日が一番幸せと思って過ごさなければならないらしい。そうは思っていても、まあまあと思ってしまうのはやはり人間の差がだろう。他の動物は、何年も先のことは考えず、今を生きているにちがいない。
81歳でゲームソフトを作り87歳の今は、いろいろなところで講演している、すごい高齢女性もいるらしいから、やはり何歳になっても夢や目的、あこがれやときめきをもつことが大事なんだろうなと思う。

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