「先生、この子の目は見えなくなるのでしょうか?」
「今すぐにどうこう言うわけではありませんが、現在の医学では将来の保証はできません」
6歳の春のこと、
「網膜・脈絡の視神経委縮」
と告げられた。26歳の母は我を忘れてなき叫んだ。私にはその意味が理解できず、なぜか母の姿が悲しかった。
「お母さん、心配することはありません。医学は日進月歩ですから、お嬢さんが大人になる頃には、医学も想像以上に進んでいます。それまで、少しでも進行しないように気をつけましょう。」
「視神経委縮」と言っても視力が0.1とか0.2とか言うのではなく視野がかなり狭かったらしかった。
母には、3人目の子どもができようとしていた。昭和30年代のこと、障害者をとりまく環境は厳しく、両親の苦悩はつきなかった。
それからは、関東・関西の病院めぐり。両親の苦労も知らず、私はちょっとばかり旅行気分だった。背中には、3歳になったばかりの弟を背負い、そして、私の手を取った。プロパンガス配送業の我が家にとって、医療費、交通費の負担は大きく、母は、幼い弟を祖母に預け働きに出た。
4年生の春、すぐしたの弟が入学した。入学時の健康診断では以上は見られず、両親は胸をなでおろした。私は、何の不自由もなく小学校生活を送った。我が家は、小さい時から両親が働きに出ていた。当時はそれでも決して裕福ではなかったが、私はいろいろな習い事をしていた。それはきっと、親としての精いっぱいの愛だったのかもしれない。私の視力は、入学当初から変化はなく、楽しい小学時代は終わった。
障碍者と言うが、当時は自分自身その言葉も知らなかったし、視野が少し(半分くらいだったかも知れないが)くらいで、生活には何の不自由もなかった。両親も、たぶん小学校を卒業するころには、入学当時の気持ちとは比べ物にならないほど気にならなくなっていたのではないかと思う。
「体操部はありますか?」
小さい時から球技が今一つ苦手だった。卓球やソフトボールともなれば、いつも集中攻撃を受けた。たぶん、視野が狭かったからだろう。
「体操部は指導員もいませんし、充分な設備もありません」
と、体育の先生は言った。 『さあ、どうしたものか?』 それからは、クラブとしての条件を満たすために自分たちで新聞部を作り、部員集めに走り回った。同好会、体操部のある学校と交流・・・など、努力のかいがあり、一年生が5人と、上級生が3人の8人でスタートした。夏休みも終わり、初めての秋期大会。果たして…。結果は? 体操部は郡内でも少なく、校間練習にはいつも苦労をした。私は、1年生の時から部長として毎日忙しく過ごした。
中学時代は、休み時間は新聞部、放課後には体操部。そして、土日は塾、その上、家の手伝いもかかせず3年間が転がるように過ぎた。
最後の試合の日、私は平均台の上から父の姿を見た。いままで、子どもの運動会にもめったに来ない父が、入り口のドアに隠れるように立っていた。私はその時、自分の目を疑った。競技が終り急いで父の姿を探したが……。私は、その時初めて父に感謝した。最終の美は飾れなかったが、私は個人総合で準優勝した。後には四国大会がまっていた。
私は中学になると、自分の目のことを意識するようになってきた。とはいえ、生活に特に苦労することなどは全くなかった。私は運動は得意な方で、陸上大会でもそれなりの成績を残すことができたし、高校も県内では上の方に位置する偏差値の女子高の受験ができるくらいで受験したが、前夜に編み物のし過ぎでのぼせたのか、当日に高熱が出て、2科目しか受けることができず失敗し、県立高校に行くことになった。
中学時代は、人並み以上に努力や工夫をした。それは、回りに対しての私なりの抵抗だったのかも知れない。自分が夢中になることで、自らエールを送っていた。周囲も意識をすることなく接してくれたが、反面、それがやたらつらかった。私は、何かを描いたり体を動かすことで…。今振り返ってみても、中学時代の思い出は、とにかく部活やサークルに明け暮れ不自由もなく、1番楽しい時期だったのかも知れない。
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