それは6年前の夏のこと。「今はこんなに悲しくて涙も枯れはてて もう二度と笑顔にはなれそうにないけど」で始まり、「あんな時代もあったねと きっと笑って話せるわ」というフレーズの『時代』という歌が、徳永英明のボーカリストの初っ端から聴こえてきた。とても聴くことなどできなかった。
当時、事業所の代表、学校での講演会、高校の福祉の授業、パソコンボランティア、そして、家でのライターの仕事。昼夜を問わず自分なりに充実していた。それが突然、食べられない、眠れない、やる気が出ない、生きている意味がない。ないないづくしの状態になり、医師から告げられた病名は、燃え尽き症候群から来た『強度のうつ病』だった。
そして、30代の後半、目の前の風景が一つずつ消え、不安と恐怖にさいなまれての失明。どう話せばよいのか分からない、恥ずかしくてとても言えない、不幸だ、もう死んでしまいたい・・・と、自己嫌悪に陥った。障害は「不幸ではなく個性」だと言う人もいる。自身の考え方で否定することはできないが、自分はそう思うことができなかった。今でも、その考え方は変わらない。目が見えないで生きて行くこと、それは個性といえるほど簡単なことではない。見えることが、どんなに便利で幸せか。かと言って、日々の暮らし全てが不幸の塊だということではない。失明したことで見えてきたものもあれば、パソコンや盲導犬、事業所のスタッフとのさまざまな出会いの中で、自身が変わってこれたような気がする。中でも、重度の障害を持ちながら残された機能を駆使して一生懸命パソコンを使っている姿に触れたとき、今までの我を恥、そして、障害を持って生きていくことは決して恥ずかしいことではないと気がついた。
それからは、いろいろな資格も取り、大きなプロジェクトを抱え、講師の依頼も増えて、それなりに充実した日々を送っていた矢先、突然うつ病という二度めの悪夢に襲われた。医師から病名を告げられたときには驚く気力もなく、ただただぼんやりと遠くを見ていたが、次々に襲いかかる苦しみと悲しみ。そして、何で、なぜ、どうして・・・・。周りの人は、「考え方次第よ」、「悩みのない者はいない」、「神経よ」、「それは更年期よ」・・・と、好きかってを言った。中でも、身内から「病気がお前でよかった。これが亭主だったら困るがやった。」と言われたときには、やっぱり、自分はここでは他人なんだと落ち込み、心身ともども燃えかすのようになってしまった。その上、夫の収入は減り、自身も仕事ができなくなり、経済的、精神的にも追い込まれ、行き場を失い、がぶりと沼地に引きずり込まれたような気になり、どん底をはい回ることしかできなかった。
これではだめだな、何とかしなければと思えば思うほど、相反する自分に苛立ち自らを責め、居場所をなくし、生きるすべまでも見失ったある日のこと。数日分のドッグフードと薬、ロープにありあわせの現金をリュックに詰め、行く当てもなく盲導犬にハーネスをつけようとしたとき、今まで一度もなめたことがなかった彼女が、涙でぬらした私の頬をペロリとなめた。身体の中に熱いものが走り、我にかえった私は彼女を抱きしめいつまでも泣き続けた。そして彼女もまた、思いっきり体を寄せ私の背中にぐるりと前足をかけた。そうだ、自分には大切なパートナーがいたんだ。これまで支えてくれた彼女がいるんだ。1人ではないんだ・・・と、さらに、きつくきつく抱きしめた。
主治医は時々、二つの例えを出してアドバイスをしてくれる。一つはプロ野球のエースのピッチャーのことで、「絶好調の時に肩を痛めて二軍落ちし、努力を重ねてまた上がり、そこでまた無理をしてけがをすることもある。」ということ。もう一つは、「谷あり山ありだったのが、少しずつ丘あり窪地ありになり、だんだんと平らになっていきます。そのためには、自分にnoを出すのではなくて、okをたくさん出してください。自分はこれさえできないと否定するのではなく、今日はこれができたと一つでも多くokを出すことが大切です。そうすることで少しずつ自分を取り戻し、心と身が一つになるときが必ずきます。」と励ましてくれている。
主治医の言うことは、本当によく分かる。うつ病になってしまったことで、今まで吹っ切れていた目のことまでも巻き込んでしまい、ますます落ち込んでしまっていたが、6年という月日が少しずつ我を分析することができるようになり、明日のことを考えることがふえてきたように思う。二つの苦難を抱えての暮らしでは出口を見出すことはまだまだ遠いかも知れないが、今は主治医を信じ、歌詞のように笑って話せる日が必ず来ると信じ、少しでも自分に「ok」を出して生きていきたいと思っている。そして、そんなときが来たときには大声で『時代』という歌を歌いたい。
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