3番目の子ども

 2003年の6月、48歳で3人目の子どもができた。と言っても、人間の子どもではなくて、私の可愛いホームページだ。その子の名前は、{『アウリンの部屋』という。

 私は、生まれつき視力が弱くて30代後半で完全に失明した。当時、まだ今のような便利なパソコンなどなく、とても高額な大きな箱を買い、画面を音声で読み上げてくれるソフトを入れパソコン通信をしていた。平成8年の秋だったか、ふとしたきっかけで障害者のテレワークの話を聞いて、早速その事業に加わった。そこは、障害を持つ者がパソコンを使って社会に参加し、仕事をするという集まりだった。

 私は、その事業所で立ち上げ当時から代表をしていた。そこで、まず、パソコンの勉強を兼ねて自分のHPを作ろうという企画が持ち上がり、勉強会が始まったが、その頃は、自分のHPを持つことなど全く興味がなかった。勉強が進むにつれ、私は代表という立場上、だんだん肩身が狭くなった。スタッフからは、「人にあれこれと指示するのはいいけど、代表自身のHPハどうなっているんですか?」と。

 「これはまずいな」と思い、しぶしぶHPを立ち上げた。当初は、大した内容もなく、ただただエッセイのようなものをだらだらと載せているだけだった。それでも、「一応、作ったぞ」と満足していると、ある日、掲示板に「アウリンの部屋は、私に大きな勇気を与えてくれました。」という書き込みがあった。それを読んでも、「へぇ、そんなこともあるんだ。」という気持ちしかなかった。勉強会も進み、スタッフのスキルも上がってきた頃、私は代表としてジレンマに取り付かれた。これからは、仕事の営業や、啓発活動もしなければならず、全盲の私に何ができるだろうか・・・・と。

 HPを立ち上げて半年ほど、全く更新もせず、そのままにしていた。事業所の中では居場所がなくなり、人間関係に悩んでいた頃、ふと、アウリンの部屋のアクセスカウンターを見ると1万回を超えていた。その時、そうだ、私にはもう1人の子どもがいたのに今まで母親らしいことは何もしてあげてなかったんだと。まだ何も言えないこの子に、私はなんてひどいことをしていたんだと、急にいとおしくなった。それから、『ピアニシモ(blog)』を解説し、毎日、その日の出来事や自分の考えを書くようになった。それを書くようになってからは、自分の居場所を見つけたような気がしたし、顔も知らない全国の人たちからも、いろいろなコメントをもらうようになった。中でも、自分を見失いどうしていいのか分からず、死ぬことばかりを考えていた中学生や高校生からのメールは、HPの力を感じさせてくれるだけでなく、盲導犬との出会いを書いた手記は、アウリンの部屋が成長する大きな力になってくれた。

 自分のサイトを開設して8年余り、アクセス数も30万回を超え、ネットを通じてのたくさんの出会いが今の私を作ってくれただけでなく、見えないから何もできないということから、見えなくてもできるんだという気持ちにさせてくれた。あうりんの部屋は、まだ8歳だけど、いつも私の愚痴を聞いてくれ、心を和ませてくれる。最近、ふと、この子ができていなかったら、どんな暮らしをしているんだろうと考えることがある。けど、いつも答えは出ない。それは、きっと、アウリンの部屋は私にとってかけがえのないパートナーだからなんだと思う。

 仕事場で居場所がなくなってしまったとき、いろいろな人間関係で悩んだとき、うれしいときやつらいとき・・・・、いつも、私はもう1人の子どもに会に来る。そして、その子に悩みをぶっつけ、帰りにまた勇気をもらってきた。そんな中、お姉ちゃんが結婚した。結納をするとき、初めてのことで何も分からなかった。そこで、インターネットが大活躍してくれたのは言うまでもなかったし、相手の両親も同じサイトを見て勉強したと、後で大笑いをした。

 こうして、インターネットや自分のHPが日々の暮らしに大きな潤いを与えてくれ、見えなくても社会に参加できる充実感を持たせてくれるだけでなく、人の手間を借りることなく新聞が読める喜び、好きなものをじっくり選んで買えるネットショッピング、講演会の後の子どもたちからのうれしいメール、ネットを通じて知り合った全国の人たちとのチャット会・・・。これら全てが、私の生きる楽しみでもあり、また力でもある。

 視覚障害は情報障害と言われるようになって久しいが、これは、もう昔のことになりつつある。今では、視覚障害のわれわれの方が、いち早くネットで新聞を読み、ニュースを知ることが可能になった。これからは、自分たち障害者の方からも情報を発信し、共に生きる社会のために、ますますインターネットの存在が欠かせないのではないかと思う。

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